弥次ノ平林道 page 2 【廃径】
● 車道(白岩三川林道(北相木側)弥次ノ窪支線林道)終点~弥次ノ平
焼笹窪下の車止めゲートからここまで、歩いて三十分で着いた。弥次ノ窪の左岸に付いた支線林道は、車の通行は稀ながら今も使われていると見られ、やや古い轍が明瞭に残っていた。土場と思しき終点広場で終わる車道だが、元々は右岸に渡って水平に続いていたことが、道の残骸がまだ続いていることで分かった。この辺はカラマツ植林地なのだが、窪周辺は局地的に自然林が残っているので、植林後しばらく放置されていることもあって、伐採当時の古いビニールゴミ、ゴムホース、錆びたお茶飲料缶を見た以外は、人臭さを感じなかった。ここに達する古道を観察したが、窪の左岸に微かな道の痕跡を見るのみで、とても通路として使えるようなものではなかった。
窪に入る踏跡を探すも見つからず捜索した結果、右岸のやや離れた位置に一条の細い踏跡らしきものがあった。やや広い窪の右岸に断続的な痕跡が見られたが、明瞭なものではなくしばしば見失った。いったん左岸に渡り、また右岸に戻ったように見えたが、窪に絡む痕跡はとにかく薄すぎて、下草や倒木がないと初めて多少分かる程度のものでしかなかった。植林のカラマツと広葉樹の自然林が混在し、シダなどの下草も繁茂しているので、さほど人工的な感じは受けなかった。巨岩やヤブ、ゴーロの状況を見ながら左右に渡り返しつつ登った。踏跡はあるようでもあり、ないようでもあった。
一六九〇米圏でカラマツ植林が終わった。同時にそこまで伴走していた痕跡も消滅した。古道を探しても中々見つからなかったが、地形的に左岸は急傾斜、沢沿いは倒木とゴーロが障害となるので、右岸山腹を登るしかないと見た。右岸上方の露岩下のシャクナゲ帯で、古道らしき痕跡を感じるも、薄くかつ断続的であり、道筋が掴めなかった。ただこの一帯に古道があったと確信した。一八〇〇米付近の右岸山腹のシャクナゲ中で、ようやく古道が明瞭な道型を示す箇所に出合った。試しに調査のため下ってみると、時々九十九折れを小さく入れながら、ツガ、モミ、シャクナゲの中を下っていた。植林限界上部の伐採跡の細木の森にぶつかると、大きく折返し下っており、植林地終点から右岸に高く登るのが正しいように感じられた。ただこの道は折り返しのたび直進踏跡が分岐していて、上から見下ろして何とか道筋を終えたものの、帰りの登りで同じ道を辿ることすらできず、調査のための下降開始点を見つけ出すのに苦労した。
多少見えやすくなった古道の前進を開始した。小さな電光型を交えつつ右岸の高みを登る道は、数分後に倒木群に遮られて曖昧になった。もう左に上信国境が近く、その尾根に向かうようにも見えたが、道型は薄く倒木もあって判断がつかなかった。微細地形のため二万五千図では分からないが、一八五五米付近の一時国境尾根が痩せて平らになった辺りである。地形図では最後まで窪を詰める破線が記入されていたので、態と右往左往するロール作戦を取りつつ窪を詰めたが、尾根に乗るまで見えていた林道の道型は痕跡すら認められなかった。おかしいと思い文献を読み込むと、原全教が正確に記録していた。「(註:弥次ノ平北の丸岩林道分岐、現在の明大ワンゲルの地名標地点から)国境をなす大尾根を八十米ほど下り左に大きな尾根を見て間の凹みへ下って行く。」[3] つまり弥次ノ平北の一九五〇米圏鞍部から、林道はなおも上信国境を約八〇米下り、その後弥次ノ窪に入っていくのである。基盤地図情報によると両点の標高差は九四米、まさにここがその地点であろう。
どこでも歩けるような広い尾根を少し登ると、明大ワンゲルの「弥次ノ平」標を打った立木がある、弥次ノ平北の一九五〇米圏鞍部である。原生林の中の平坦な峠状で、見通しが利かないため明大が弥次ノ平と勘違いしたのも頷ける。なおこの地名標は、以前は自然な通り道にあったのだが、近年発生した倒木に囲まれてしまい、現在は単に踏跡を辿ってでは気づき難い場所にある。御座山への細い踏跡が見えるが、南に下るはずの丸岩林道はもう全く分からなかった。注意して探すと、近くには「山」と刻まれた山林局の三角点や、群馬県の休猟区の表示板が認められた。倒木のため明るくなった森の踏跡を南へ数分ゆるく登ると、踏跡がぼんやりして、ちょっとどうして良いかわからなくなるような平らな場所に着いた。この一九七〇米圏の平頂が弥次ノ平である。基盤地図情報を見れば細かい地形が分かるのだが、先の地名板の鞍部からここまでが二五米の登りで、五米下った広い鞍部状の南東には、木々を透かしてやや尖った十米の突起が見えていた。
弥次ノ平にかつてあったという小祠[2,6]は、木製で朽ちてしまったのか、石造りであっても倒木に埋もれているのか、気づかなかった。この祠については二つの説がある。北相木ではこの地の字を大神楽と言い、伐木による山の神の怒りを神社を建て祭りを開くことで鎮めた、木次原の雨乞場として渓に浸した剣を山の神に捧げて雨を呼んでいた、神楽が行われていたなど[2,5,14]、山ノ神に関連していたとの説と、弥次右衛門という健脚の盗賊の屋敷があったとか、小祠は足に豆を作って動けなくなり自害した弥次右衛門という落武者の霊を祀るものだとか、弥次右衛門に関係するとの説[2,14]、とがある。
● 弥次ノ平~一六六二独標付近
東に向かう上信国境は地形特徴がなく、下り出しの方向は大いに戸惑うところである。幸い薄ヤブなので微細な地形を読みながら、少しずつ下って国境尾根を捉えることになる。尾根形状が徐々にはっきりしてきて、踏跡も次第に下るに従いやや判別しやすくなってくる。尾根と右の丸岩窪の間の山腹についた踏跡は、いったん尾根に出た後、また山腹へと戻った。倒木のたび一時不明になるが、道の流れを読んで進むうち、また踏跡に出合った。一帯は自然林の下を枯死笹ヤブが覆っていて、複数の踏跡が集合離散しているようだった。尾根のすぐ右がカラマツ植林なので、それを見失わないように鞍部まで下った。一七九一独標の置かれた広大な鞍部の信州側を注意すると、マーキングがあり、すぐ下に見える車道へ向かうカラマツ植林中の不明瞭な踏跡が見えたが、枯死笹ヤブが酷く大して役に立たなかった。とにかく適当に車道まで転げ落ちるように下った。
ここからしばらくは車道歩きとなる。ヘアピンカーブで石仏方向へ登る支線を分け、丸岩窪に付いて下った。まだ使われているらしい整備のよい造林作業小屋の地点で、白岩三川林道の本線に合流、窪の左岸を行く車道をなお下った。小屋の二百米先にまたヘアピンカープがあり、支線車道が左の窪に分かれていた。昨年できた新しい道で、これに入るのが懸命である。実はこの付近を探索し、何箇所かで一八八〇米付近の山腹を水平に行く古道の痕跡らしきを見かけたが、大部分が新造された車道に潰されたとみられ、全く実用にならないからである。複雑に分岐する車道網の全貌を正しく掴めたか定かでないが、少なくとも一六六二独標へ向かうルートを把握することができた。まず「左の窪に入る支線車道」に入って五、六十米も行くと、車道が分岐するので右を取った。ひと登りした後、ごく緩い下りで山腹の山襞をひとつずつ丁寧に巻いていった。右(登り)、左(下り)、左、右、右の順に次々と支線を分け、最後に僅かに登って、一六六二独標付近の尾根に突き当たった。尾根上の一六六二独標鞍部では、かつて歩いた弥次ノ平林道が、車道周辺の伐採地に突っ込むように途切れていた。ここに来たのは僅か二年前、まだ車道の気配すらなかったときのことである。会所越えの峠道の分岐はますます不明であり、いやほとんど認識できないほどであった。
ここで会所から来る明治時代の馬道を合わせるので、山道の割に道幅がやや広くなる。弥次ノ平林道は、ここからの三川側では古い馬道を利用しているのである。ただし馬道の会所側は昭和年間の伐採で消滅しているので、合流点は確認できない。独標鞍部から南西五、六十米の所に、小ピークを挟んだ隣の鞍部があった。ここに上がってくる明瞭な馬道がヌクイノ窪へと入る弥次ノ平林道で、鞍部には臼田営林署の栗鼠が纏(まとい)を持つ火の用心看板がある。なお地形図に茶屋ノ平とあるのは間違いで、昭和初期に仮小屋があった茶屋ノ平とは、一六六二独標と丸岩窪の間の山腹に位置する林道の一地点で、図上でもその付近に示され[15]、「小さな平」[2]とされるが位置の詳細は定かでない。念の為付記すると、ヅミノ頭に置かれた三角点の名称も「茶屋の平」だが、点名は近隣の地名から引いて命名するものなので、ここが茶屋ノ平と言うわけではない。
● 一六六二独標付近~土捨場奥
(「会所越」に記載の内容と重複するので、多少調整して同一文を使用。)
栗鼠の火の用心看板のある鞍部から下る峠道は、最初だけ明瞭だったが、すぐ不鮮明になった。白味ががった流れやすい土に淡く刻まれた、不鮮明な道型を注意深く辿った。折り返すごとにそこから分かれる踏跡が伸びていて、正道を失いやすかった。ヌクイノ頭へ行くらしい踏跡もその一つであった。折り返して窪中央に戻ると、窪左岸の岩壁との間を沢山の細かい電光型で下った。道荒れが酷く、歩き難く、また分かり難かった。ガレた右股窪の、左岸、折り返して中央、また左岸、折り返して窪を渡り右岸、と辿る痕跡が、辛うじて読み取れた。崩礫と倒木が覆う渡窪部で道は完全に消滅しているので、窪沿いに歩いていては道の存在に気づかないだろう。峠道に沿って時折色褪せたテープが現れるこの道は、いかにも馬道らしく幅があり勾配も一定だった。
一五二〇米圏二股近くでは、峠道は全く正確に地形図通りの道筋になった。右股を下ってきた道は、中間尾根を回り込んで左股に回り、左股の右岸、左岸(中間尾根)、右岸と涸窪を渡り返した。一五二〇米圏の二股は明るく開けた窪地状で、左岸の中間尾根末端に整地した場所があった。八十余年前に原が見た、峠道が使われていた頃の古い建物の跡だろうか。明滅しながら何とか歩けた峠道は、この辺からカラマツ植林地に入って倒木が現れ歩き難くなった。かつてこの辺で原全教が「ものすごい岩頭が沢の奥に聳えている」[2]と記したヌクイノ頭の岩峰が、落葉したカラマツの梢間に高かった。植林地内では、窪右岸の薄い作業道を下った。やがて埋め立てられ平坦になった細い雑木林が覆う土捨場の光景が目前に広がった。
● 土捨場奥~大黒沢出合下の小窪
(「弥次ノ平林道」に記載の内容と重複するので、多少調整のして同一文を使用。)
現在、土捨場の左岸中ほどまで車道が完成しているので、ただ単に下山するなら土捨場の上端から左端へと回る踏跡を辿るのが良いが、古道を辿るために右端の踏跡に入った。土捨場部分の古道は埋め立てられて消えたと思われ、それが再度現れる部分まで仕方なく埋立地の縁を進む訳である。あるかなしかの踏跡で人工的な平坦地に沿って進むと、傾斜のある埋め立て部分に入ってきた。やがて車道のヘアピンカーブ部に接近し、その脇を抜けると、踏跡はバラけて不明瞭な痕跡になりほぼ消滅した。探しながら適当に下ると、一四三五米付近で突如小道が現れた。土捨場の残土に埋もれていた古道が、ようやく表に出てきたのである。
明らかに馬道のムードを漂わすしっかりした道型で、岩を避けて直下を通りながら、カラマツ(上)と自然林(下)の境界を水平に進んでいった。切株もあることから、植林作業道として生き残ったようだ。小尾根上の岩頭を越える所で、足元の大黒沢の眺望が良い。ここが原全教の云う「岩の突端」で、「足許から水面までは絶壁をなし、深峡の底には紺碧に淀んだ深淵を俯瞰し」[3]と述べた箇所に違いない。ただ原が通った一月と違い、青葉に覆われて絶壁や深淵ははっきりとは感じられなかった。カラマツ植林地に入って緩く下り始めるも、暫くして土砂流出による道型消滅があり、微かな踏跡を辿った。踏跡は、水のない三川の一三五〇米圏右岸支窪の一四〇〇米圏二股付近に下りた辺りで、完全に消滅し、進むべき方向が全く分からなくなった。道の目印を隈なく探すと、左岸の不自然な石垣が見つかった。それを道と仮定し下ると、馬道の痕跡らしき道型が一瞬回復し、すぐ滑らかな斜面に消えた。時々現れる道の気配を追うと、車道が近づき、痕跡は窪をつづら折れて窪を下ってる雰囲気だった。道型を認識できないまま涸窪を、目の前の車道(大黒沢林道)まで下った。大黒沢出合の下流約二百米の地点であった。
【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)
- 御座山からの南北相木村界踏跡で弥次ノ平
- 白岩三川林道(栗生川沿い)で丸岩窪の植林作業小屋付近
- 大黒沢林道からの支線車道で土捨場