前橋街道/草津街道(草津峠) page 4 【廃径】
● 草沢本流~中電歩道交点
右岸は沢から一段上がった一面の平坦な笹原で、渡る場所に応じてそれぞれ踏跡らしいものが付いている。直線的で明瞭な踏跡は見られず、何本かの痕跡が曲がりながら付いていて、水流跡なのか獣道なのか分からない。前方に見える数米の小高い丘の右側を狙って、東ないしは東南東にそれらを拾いつつ前進すると、草沢から約五十米先に、一直線に伸びる笹のやや低い開けた部分があって、その手前端に高さ二米ほどのシラベの幼木が道の真ん中にポツンと立っていた。ここから先、辛うじて道の気配が感じられるようになった。とは言え明らかな道型には程遠く、笹の平原を闇雲に直進するに近い感覚だ。そこを蛇行気味に流れる8番沢を渡った。明らかな渡沢点は分からず、進んできた方向にそのまま渡った。ここまでに草沢からごく緩く登って高度を約七米上げている。
8番沢の右岸で進路をやや右に変え南東に向かうのがポイントである。相変わらず笹原が続き道型は断片的であるため、正しい経路である確認が取れないまま進まざるを得なかった。平原の中を行かず、右側の高度を上げつつある斜面に沿いながら、僅かに登り気味に進むのが正しい。稀にみられる一瞬笹が切れたり薄くなったりする道の痕跡を繋ぎながら、8番沢からさらに約七米高度を上げた。特に最後の部分は、短区間だが明らかな登りとなった。草津へと下るはずの街道が草沢から合わせて十数米高度を上げたのには、二つの理由が考えられる。第一に草沢右岸の緩斜面で登高に進むと緩やかな尾根を大回りする必要が生ずること、第二に登高に行った場合は二箇所の崖を通過しなければならないからである。
一九五〇米で微小尾根を超えると平坦地形が終わり、山腹のトラバースになった。道の不明瞭さは変わらないが、山腹を道幅分削った道型が水平に続く分を追えばよいので、真平らな笹原よりはだいぶ分かりやすい。だが同時に笹が深くなり、探りながら道型を辛うじて判断するほどになった。一方、地形的には単調な斜面のトラバースとなり、登高線沿いに見える笹の微妙な凹みを道と判断すればよい点で有利でもあった。その水平な道型が突然出くわすのが、鋼板の急階段の両側を鋼製パイプの手すりで囲んで垂直に敷かれた慰霊歩道である。去年はなかったので、今年(令和七年)に入ってから設置されたようだ。慰霊道は右上から階段で降りて来て、厳密に言えば前橋街道上を草津方向に数米辿り、そこから左下に丸太材の階段で下っていた。これを一、二分下れば中電歩道と交差し、さらに二、三分下ると非業の墜落に見舞われた「はるな」の慰霊碑がある。
斜面の傾斜が強まるためか道型が次第に明瞭になり、一時はヤブはあっても歩きやすくなった。だが日当たりが良い東斜面に変わるとチマキザサが勢いを増し道を隠してしまう。それでもネマガリダケに比べれば、掻き分ければ通れるし探せば道型も見えるのでマシであった。針葉樹と笹が混在する斜面に幅数十米の小振りな笹原があって、街道がそこを突っ切る時、なぜか街道沿いにだけ不整列な一直線にシラベが生えていた。まさか日光街道のように意図的に植林したわけではないだろうし、通行した旅人か動物が意図せず種を運んだためだろうか。所々に土の露出した部分があるため、それを繋ぐ街道の存在が確認できたが、7番沢の左岸では猛烈なチシマザサで道がほぼ消滅した。こうなるととにかく水平に進むしかなかった。7番沢は微粒ながら幅広で対岸の道の続きが分からず、ここもひたすら水平に通過した。猛ヤブを抜けて以後、再び何とか認識できる程度の道型が回復し、続けて伏流した6番沢を通過した。針葉樹の日当たりの悪い影で笹が弱まると、時々街道の路面が顔を覗かせた。そのような明確に道とわかる点を、あやふやな道型という線で繋ぐ状態であって、安定した道として使えるレベルではなかった。街道がいつの間にか数米高度を下げ、寒沢堰上の中電歩道の切り開きが垣間見えた。5番沢ではやや幅広く沢周辺の道が流失していたが、ここも水平に突破すれば良かった。一〇米近く下の中電歩道のピンクテープが見えていた。樹間で陽光が差し込む部分で急に笹が深まるも、探れば目では見えない道型が見つかり正しく前進できた。4番沢はスラブ掛かった斜面に細流がすだれのようにかかる綺麗な場所で、明るく開けて眺望が良かった。数米下の中電歩道を明確に認識できた。樹林帯の疎らな笹ヤブを少し進むと、するすると高度を下げ中電歩道と交差した。交差地点の前後十数米は笹ヤブが酷く、中電歩道整備・改修の影響であろうか、街道はほぼ消滅状態であった。少し離れた道型が残った場所を結ぶ直線が中電歩道と交わる地点を、交差地点と判断した。場所は中電歩道の2番取水口の約十五米西の小窪上である。
⌚ฺ 草沢本流-(20分)-はるな慰霊道交差-(40分)-中電歩道交点[2025.10.10]
● 中電歩道交点~(仮称)白沢小屋分岐
この区間の前橋街道は、道型が明瞭で廃道としては歩きやすいが、笹薮・倒木・崩壊で荒廃し普通の道のようには歩く訳にはいかない区間である。だが廃道慣れした方なら割と歩きやすいとも言える。笹ヤブはチマキザサが主なので漕ぎ分けは容易、笹に埋もれた箇所もあるがほぼ水平に行けば良いので迷うこともない。2番取水口の少し草津峠寄りで交差した前橋街道は、初めの十米はほぼ消滅いているが、2番沢を通過する辺りから道型の痕跡がすぐ現れ、そこに昭和五十~六十一年仕様の古い缶コーヒーの空缶を見た。記録に見る最後の通行は昭和五十三年の明大隊によるものであるから、この区間が歩かれていた時代の最後の頃に捨てられたもののようだ。
その先から、荒れてはいるが道型としては明瞭になった。寒沢堰起点すなわち1番取水口の数米下を通過する時、水は全て取水されるため流水は見えなかったが、水音が聞こえてそれと分かった。中電歩道から前橋街道に入る場合は、1番取水口から適当に斜面を下って街道を見つけるのが手っ取り早いだろう。そのように中電歩道から前橋街道にここで移る方法で昭和期まではかなり歩かれていたようで、廃道としては幅広くかなりしっかり安定した道であった。低いヤブを数十米進むと、崖状の急斜面から落下する草沢の支流の一つである豊かな水流を通った。深い森の道はヤブがあってもさほど煩くなく、倒木、落石などが放置されていても、廃道としては悪くない歩き心地だった。崩壊地があるも危険はなく、数十米の間道が消え乱れた踏跡になるだけで通過は容易だった。崩壊の先にそれまでと同じペースの道がしっかり続いていた。街道は、地図上では極めて緩く下っているのだが、意識できないほど僅かな勾配で感覚的にはほぼ水平であった。草沢の最後の支窪は涸れていて、小屋でも建ちそうな小さいスペースがあった。石橋が昭和十五年に報告した笹小屋があったとすることこの辺りであろうか[42]。笹が被って路面が直接見えないものの、藪を漕ぐと云うほど酷い密度ではなく、歩きやすくも歩き難くもないほどほどの道であった。
小さな白沢の流れを横切る部分は道型が流失していた。大部分は道の在り処が見えないほどの笹に覆われているが、所によりヤブが薄くなって高速で歩ける部分もあった。それでも道の中央に大きな木が成長していたり、永年に渡り放置されてきた様子が伺えた。歩みを進めるうち、突然前方が開け立派な刈払道になった。(仮称)白沢小屋への分岐である。草津町が水源巡視道とするため刈払いを行っていると見られ、ここから一直線に笹を切り開いて約一〇〇米を急下する道は、標高一八〇〇前後を通って水源を結ぶ草津町歩道に接続していると見られる。以前は下に小屋があったらしいが、現在の白沢小屋は宮手沢寄りに移転したらしい。草津町の水源を結ぶ巡視路が前橋街道より低い位置を横に走っているが、その道は各水源の位置に応じて激しく上下するため、効率よく水平に移動できる前橋街道を使って巡視対象の水源に最接近し、急下して現場に到達しているものと推測される。
⌚ฺ 中電歩道交点-(20分)-(仮称)白沢小屋分岐 [2024.5.30]








































