奥千丈軌道(桜沢~大弛峠) page 2 【廃径】

 奥千丈軌道は下流側の最長時は窪平が起点であったが、杣口、琴川第三発電所、柳平を通り桜沢までの区間が車道化され、またダム周辺は水没もしくは立入禁止となり、軌道跡として歩くことができなくなってしまった。ここでは桜沢から上流側の軌道跡と、それに続く大弛小屋への連絡路を歩くものとする。

● 桜沢~御室小屋分岐

 軌道が通過していた桜沢の県有林の桜沢事業所跡付近は、かつてはここを通る金峰山東口参道の小屋場が置かれ、また伐採最盛期には時期により支線が敷設されたり、軌道からトラックへの積替えが行われたりと、いつの時代も荒川右岸の要衝の地であった。現在は立派に舗装された川上牧丘線が桜沢橋を架けて通過するが、その三十米上流側を渡る旧車道(越峰林道)の橋の右岸側の小屋跡が事業所跡と推測される。この部分ではまだ軌道跡が車道化されているので、厳密には軌道跡が残っているのは約三百五十米先からで、そこまで車道を辿る。平成十年頃の改良工事で設置された道路下の擁壁に呑まれた軌道跡が見え始めるが、擁壁を降りることが出来ず、二つ目のカーブミラーから笹の中の小さな踏跡で軌道跡に下った。先程下れなかった擁壁下まで途切れがちな軌道跡を逆行すると、立木に字が消えた小さな木標が打ち付けられていた。車道を歩いてきてた登山者に対し、軌道跡に入るよう促す表示であったのかも知れない。
 カラマツ植林下の低い笹の中に、明瞭な道床が残っていた。あまり踏めていないため、さほど歩きやすくはなかった。気づかぬほどの緩い登りだが、実感としては水平である。二百米ほど先の小窪は、車道工事の際崩れてきたのか、上からの土砂や倒木で埋まって通過し難かった。その後も落石や倒木が散発するも、歩くには歩ける状態だった。たまたまそれらの障害物がない部分は、快適な歩行だった。カラマツ植林を抜け、しばらく伐り残された針葉樹林を歩いた。右上の車道は次第に高度を上げ、遠ざかって行った。左下にアコウ沢が見え始める辺りは、小窪ごとに激しく荒れ、特に崩礫で伏流して流れが見えない下アコウ沢を渡る部分は、数十米の間道床が完全に消滅していた。続きを根気よく捜索しないと、道を外す恐れすらある。その数十米先で続けて、上アコウ沢容易に渡渉した。この両岸も道床が流失し曖昧になっていた。分岐するアコウ沢支線の道床もほぼ失われ、どこでどう分かれていたか分からなくなっていた。文献の記述[22]、現地の地形、僅かな痕跡からすると、アコウ沢右岸で出た支線は直ちに沢を渡って折り返して登り、またカーブして再び北行、しばらくして右岸に渡り返し、上流に向かっていたようだ。この先の荒川左岸に沿う軌道が未完成だった昭和十年前後の一時期、金峰東口参道の代替に歩かれていた経路である。上アコウ沢は両岸が多少開けていて、渡沢点付近は良い休場であった。
 上アコウ沢の右岸を緩く登る部分は、土砂で道床が埋まり不明になるも、礫や倒木がなく歩くのに支障はなかった。一定ペースの勾配で適当に緩く登ると、道床が再び現れた。それもつかの間、顕著な上アコウ沢右岸尾根を荒川側に回り込むと、目の前に大崩壊が現れた。崩壊越しに金峰山の眺めが見事だ。五十米ほどのザレを渡って渡れなくはなさそうに見えたが、ほぼ踏まれていないので渡り切れるか確信を持てず、高捲いて越した。捲きの踏跡は確りしていた。カラマツ植林と一部針葉樹林の、比較的安定した歩きやすい道が続いた。時折現れる小崩壊も通過は容易だった。金峰東口参道が越えてくる上アコウ沢右岸尾根の約一八五七米の鞍部下を通る辺りから、参道がほぼ並行していたと思われるが、現在参道は半ば消滅しかけた踏跡程度になっている。その参道ルートに付けられた黄テープは、一九二〇圏小峰から西南に出るガレ窪を使って軌道跡に降りてきているが、軌道跡のその地点にあった黄テープは、取り付けた木ごと流され道床下に倒れていたので、もはやその地点は分からなくなっていることだろう。一九二〇圏小峰の西尾根の手前は、岩稜帯になって特に斜面が急である。岩場の直前のガレ窪で、そこを下ってくる東口参道が交差していたと推測するが、東口参道の痕跡は相当薄くなっているため、不確実な推測である。かつての軌道は、岩の位置と僅かに残る石積みから、桟道を架けて通過していた可能性がある。桟道があったかも知れない部分を、現在は細い踏跡が急に降って登り返している。その約三十米先で西尾根を回り込んだ。御室小屋分岐である。明るく開け小広くなっているので、何かの作業場であったのかも知れない。小さな石積みがあり、金峰山を示す地味なプレートが立木に取り付けられていた。軌道を下ってきた現在のアコウ平口金峰登山道が、ここから西尾根に絡んで下っていた。

 

⌚ฺ  桜沢小屋跡-(5分)-軌道跡入口-(25分)-上アコウ沢-(25分)-御室小屋分岐 [2021.3.15]

● 御室小屋分岐~二〇七二米軌道跡終点付近桜沢~御室小屋分岐

 御室小屋分岐は伐採当時土場だったところで、アコウ沢から索道で伐木を下ろしトロッコで運んでいたようだ[14,23]。昭和四十六年とこの付近では新しいシラベの造林標を見て、歩きやすい軌道跡を行く。ところどころ線路や枕木が残る雰囲気の良い道だ。同じ植林でも、カラマツ、ヒノキ、スギと異なり、シラベの植林は森として美しい。ポイントがある地点でアコウ平への一般登山道を分けると、分岐脇の窪で道床は崩れていったん消滅、復活した対岸の道床は荒廃気味であった。
 すぐに土場か何かの小広い敷地があり、踏跡はさらに直進するものの、軌道跡の道床を不意に見失った。昭和三十年代後半、台風被害で軌道の荒川橋梁が流された後、軌道はここの一七・五粁の飯場までが使われていたらしい[15]。よく調べると、道床の真上の大倒木に敷かれてヘアピンカーブがあり、枝の隙間から線路の残骸が見えていた。敷地を囲むように急に折り返して曲がり、右脇に来た道を見ながら石垣で補強された道床は緩く登った。一度下流に向かった軌道は、百四、五十米行った小窪のヘアピンカーブで折り返した。線路や枕木が苔に覆われ、もしくは一部の道床が流されて空中に軌条が架かり、メルヘン的な様相を示していた。この二度のヘアピンカーブで約一五米の高度を稼いだ。この辺りから線路や枕木が続くようになったのは、軌道撤収時点で廃線となって久しいためトロッコが使えず、レール等の資材を搬出できなかったためであろう。ザレた小崩壊が現れ、容易に渡った。急にヤブっぽくなるも線路は続いた。小さな明るく開けた場所で、右の大木に減り込んだ県有林の古い1/2林班界標を見た。向かって左側の線路だけが流され、左右の線路が十数~二十米も離れてしまった小窪を通過した。その右岸に黄色い巻尺が落ちていた。荒川が次第に近づき、瀬音も強くなってきた。渓畔林を行く軌道跡は歩きやすかった。やがて現れた広大な敷地に潰れ小屋の残骸とビン・缶などを見た。ここは「相和の小屋」というらしく、昭和三十年代前半の軌道はここまで使われていたようだ[13,14]。石垣で補強した道床が、荒川左岸の広い敷地を大きく迂回して折返して下流方向に向かっていた。
 百二、三十米戻るとヘアピンカーブで折り返し、先の小屋跡の約一五米高い位置を通過し、なおも上流へ向かった。道床が激しく崩壊して線路が空中に繋がる小窪を通り、道床の損傷と共にヤブや倒木が酷くなってきた。線路は相変わらず続いていた。その先で傾いた古道標を見ると、忽然と軌道跡が消えた。昭和三十四年の台風七号で流失した箇所である[15]。古道標の上側の表示は消えかかっていたが、下側を見ると「奥千丈 アザミ平」(柱部)、「杣口を ?て塩山に至る 杣口まで4時間30分」「右岸に渡り大弛に至る 2時間10分」(腕部)と読み取れた。右岸に渡るとあるが、橋はもちろんその痕跡すら見られなかった。踏跡で荒川に下ると、線路が水中に落ちたり刺さったりし、中には常に水を浴びているためか錆びずにきれいなものもあった。右岸に渡渉し道床を探すもなかなか見つからず、かなり広範囲に捜索し、百米以上離れた山腹の右岸側分流の向こうで軌条を見つけた。そこから土砂に埋まった軌条や道床の残骸を逆に辿り、ようやく経路を推定することが出来た。軌道跡が途切れる道標地点から、本来の軌道は川沿いの左岸に付いていたと思われる。川の両岸に流された線路の残骸が落ちているが、左岸の方が多かった。この部分は荒川の水際か、崩落部の上縁に沿って森の中の踏跡かを行くことになる。約百米進むと左岸の荒れた河原がやや広くなった。一九八七米で左岸に入る顕著な無名沢の出合の直前の位置である。後日さらに訪れて分かったが、ここで右に無名沢に入る支線軌道を分岐していた。河原の酷い荒廃と軌条、道床の流失により、分岐は跡形もなかった。本線はこの一九八五米地点で左にカーブを切って荒川を右岸に渡っていたはずである。渡渉は、普通に行えば靴を濡らさずには難しいが、たまたま下流側にうまく引っかかっていた倒木を使って渡ることが出来た。
 この地点から右岸側に微かな道床跡が見られるようになっていた。断続的で不完全な道床の痕跡は、ひしゃげたり一部が砂に埋れた線路を伴いつつ、ゆっくり左へカーブして川中の低い尾根的な地形を越し、右岸側の分流した水流を渡り、右岸山腹を下流方向に向かっていた。なお、古道標で右岸に渡された登山道は、おぼろげな踏跡となってこの辺りで軌道跡に合流するようになっていた。川を離れるに従い、軌道は次第に完全な形を回復し、いつしかシラベ植林森の中の美しく快適な遊歩道に変わっていった。清水が森に潤いを与え、苔が線路を覆う光景は、幻想的な感すらある。分流を渡ってから二百米ほど行った山腹のヘアピンカーブで再び上流側に向き直った。一時的にヤブや倒木が増えるも、すぐまた美しいプロムナードに戻った。この大きな折返しで約三〇米の高度を稼いだ。境界見出標があって県有林に戻った。荒川右岸は基本的に甲府市有林なのだが、渡河点付近から上流では荒川右岸の一定範囲が県有林なので、県の伐採や植林が及んでいる。したがって折り返し登るこの部分は、甲府市有林に借地して入り込み敷設したものと思われる。この不可解な境界線は、江戸時代の御嶽金桜神社と西保村との境界をそのまま引き継いだためであろう。
 ごく小さな窪を、橋や使わず石積みの基礎で通過すると、右下に荒川を見るようになった。軌道は勾配を強め八パーセント以上の急坂を登っていたが、荒川の河床の上昇がきつく、次第に差を縮められていた。落ちた木橋の丸太の残骸上の宙を跨ぐ線路が架かる急な窪を通ると、右岸崖上の線路は雑木のヤブを潜るようになり、崩壊が続出し通行が難しくなってきた。次の急な窪では、窪の崩壊で軌道はすっかり流され、渡るにも手間がかかった。その右岸すぐの位置に、荒川源流地帯の五つの堰堤のうち最初の一基、すなわち第一堰堤がある(下流側から順にそう仮称する)。昭和四十五年度と標記されており、川上牧丘林道開通を受け工事が行われたようだ。堰堤工事のため右岸山腹が護岸され、スパゲッティのようにねじ曲がった線路が土砂から顔を覗かせていた。十六世紀の川端下金山への連絡路である信州往還(国師街道)が[24]、ここで交差していたと推測される。
 崩壊窪に続く堰堤工事で、軌道はどこを通っていたか分からなくなっていた。窪手前の軌道跡を延長すると、恐らく堰堤右岸をちょうど高捲くくらいの位置を通過していたと想像された。右岸の道なき灌木ヤブに突っ込んでみると、すぐに線路と道床が現れた。線路上に酒瓶を見てまもなく、立木に錆びて読めないブリキ道標が打ち付けられていた。この分だとダム建設で軌道跡が破壊され登山道としても使えなくなったと見られるので、昭和四十五年以前のものであろう。軌道が荒川沿いになると、前方が崖の様に迫り道床を作る余地がなくなった。比較的広い左岸に移ったと推測し、左岸に渡渉してみると、ヤブ状のシラベ幼樹の中に線路が落ちていた。川岸の荒廃で道床も線路も接続が不明だが、よく調べると、二〇六五米で左岸に渡ってすぐヘアピンカーブで高度を稼ぎ、川から離れた森の中を進んでいるようだった。川の洪水かダム工事かで荒らされ、道床や外れた線路が点在する状態のため、もはや確実な経路は分からなかったが、残骸の位置を繋ぐと何となく軌道の位置が推測できた。
 最後の線路の残骸を見たのは、標高二〇七二米、左岸の川から二、三十米離れた位置だった。その先、堰堤工事か道路工事が関係してか、左岸側で上方からの土砂流入が頻発し河原を埋めていた。軌道があったとしても埋まって全く分からない状態だったが、地形的には少なくともその先二、三十米までは続いていたように見えた。真の軌道終点は、筒井の図[21]にあるように再び右岸に渡って少し登った辺りになるが、目の前に積もった左岸山腹崩壊の押し出しにより完全に埋没してしまい、全く分からなくなっていた。「二〇キロの最後の距離標を左側に見ると軌道は大きくカーブして荒川本流を渡る。再び荒川と合した所が軌道の終点である。」[14]という記述も、筒井の図とよく一致する。距離を図上で実測すると、確かに二〇六五米渡河点は二〇・〇三粁であり、計測誤差を考慮すれば完全に一致していた。

 

⌚ฺ  御室小屋分岐-(10分)-アコウ平分岐-(45分)-古道標-(5分)-1985m軌道渡河点-(35分)-第一堰堤-(10分)-2072m軌道終点付近 [2021.9.16]

● 第五堰堤上~大弛小屋

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荒川から大弛小屋までの旧登山道(出典:国土地理院 基盤地図情報5m標高)

 

 堰堤上は、右奥に本流の八米滝が見える広く明るい河原だった。ここから微かではあるが、旧登山道の痕跡が残っていた。堰堤直上の右岸小窪の左岸山腹(荒川本流に対しては右岸にあたる)に取り付く、多少歩かれたような纏まりのない痕跡を登ると、二、三分でガレた右岸支沢を渡った。ガイドで「白い大きな石の転がっている涸沢」[14]、「広い川原と化した沢」[21]とされるものだ。幅が二十米ほどもあり対岸の取り付きが見えないが、斜めに横切ると灌木中に何とか続きを見つけた。ヤブ状の灌木を潜って痕跡を追うと、すぐ小さな窪の右岸に沿い始めた。辺りが奥秩父らしい原生森になると、何となく左岸に渡る雰囲気を感じた。道型はかなり曖昧なので、古道の感覚を肌で感じ取っていかないと厳しい区間だ。左岸をやや進むと、倒木に付いた古いブリキ道標を見て、正道と確認した。道が右手の小尾根に乗る気配を感じて、それに移った。ここからは、尾根道なので地形的に分かりやすい上、ある程度道型が残り、錆びて読めないながら道標が転々と大木の幹に打ち付けられているので、慎重に歩いていれば問題なかった。道標の文字は完全に消えていて、矢印型に錆び方の違う部分があったりするので、何かの方向を示していたことは分かった。
 息をもつかせぬ急登だったが、最後の小窪を渡って約一〇〇米登ったところで一瞬平になった。一休みしたくなる雰囲気の場所だが、それほど先も長くないのでそのまま進んだ。ここから尾根形状が曖昧になり、それに伴い踏跡がやや左に流れつつバラけるようになった。下りであれば上から俯瞰して様子を見ながら下りたい箇所である。だがすぐに川上牧丘林道のガードレールが見えてくるので、あまりトラバースせずに車道めがけて真っ直ぐ登るのが良い。ルート取りが正しければ、首尾よくちょうどガードレールが途切れる地点に出るはずだ。大弛峠へ向かうなら車道を三分も歩けばよい。
 大弛小屋への旧道は、烈しく荒廃しており、どうしてもと言うのでなければ通らないほうが良い。管理人(私)も、ここまで酷いと思わず通って参った区間である。車道横断点(二三四〇米)から車道は大弛峠(二三五八米)まで、旧登山道は大弛小屋(二三六六米)まで何れも緩く登るが、特に横断点直後はほぼ並行して進むことになり、旧登山道は車道造成工事により完全に破壊されているように見えた。この林道のように大型車両が通るある程度道幅が広く道では、路盤に加え、法面の工事や、特に山側斜面は伐採や山留工が行われる。車道沿いの明らかに植生が違うヤブ状に灌木や低木が密集した部分は、造成後に植樹もしくは自然生育したものと見られる。旧道を辿るには、これらを突破する必要がある。まず法面の石垣の低い部分をよじ登ると、斜度が小さく比較的歩きやすい灌木帯になっていた。道型はほぼ消えていたが、通りやすい部分がかつての道であろう。しかし斜面が急になると密集した低木に行く手を阻まれ、がんじがらめで進めなくなった。崩落防止のための植樹地帯と推定され、力づくで一歩一歩密ヤブを潜り抜けるしかなかった。ようやく大きな礫で埋まった窪状地形でヤブを抜けた。小さな踏跡が現れ、そのまま大弛小屋の南側にある小さな水流のところで、国師岳登山道に出合った。すぐ目の前が大弛小屋である。

 

⌚ฺ  第五堰堤上-(40分)-川上牧丘林道横断-(20分)-大弛小屋 [2020.9.16、2020.9.30]

 

[22]春日俊吉『奥秩父の山の旅』登山とスキー社、昭和十七年、「金峯・国師岳日帰り行」二五四~二五八頁。
[23]「奥秩父」(ブルー・ガイドブックス 22) / 清水武甲 編 (実業之日本社, S38) 「琴川林道」p146-147(千島一兼)
[24]川上村教育委員会・川上村文化財保護委員会『梓久保全山遺跡B地点発掘調査報善書』、平成二十年、「第2節 遺跡周辺の環境、2 遺跡の歴史的環境」四~八頁。

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車道法面下のスタート地点
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軌道跡使用当時の道標か?
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笹が茂るも明瞭な道床
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カラマツ植林中の歩きやすい部分
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だが倒木も多い
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橋台だけが残った荒廃箇所
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岩壁脇を通過
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上アコウ沢を渡る
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このカーブ先からいよいよ荒川に沿う
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大崩壊地から金峰の眺めが良い
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踏跡で高捲いて越す
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何事もない箇所はハイキングコース同然
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枕木だけ残っている
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小さな崩壊は容易に通過
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岩盤ごと落ちた場所は一度下って通過
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道がきれいになると…
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御室小屋・金峰山への分岐
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ここまでの短区間は整備された一般登山道
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土場があった17.5kmの飯場跡
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ヘアピンカーブ直前の大倒木
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カーブが崩落し線路だけが走る
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歩道としても役立たない迷走する軌条
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線路の中央にも大木が
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もはやジェットコースターのよう
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土砂に押し流されたようだ
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ここから源流部の1林班に入る
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鮮やかな苔のカーペットに癒やされて
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荒川と並走するようになった
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石の堤上のヘアピンカーブ
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「相和の小屋」の僅かな痕跡
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登山道が右岸に渡る道標
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そこから線路は流され川に落ちている
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川に落ちた線路を見て左岸を行く
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ここで右に支線を分けるが痕跡すらない
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1985m渡河点にも何も残っていない
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渡って少しの間右岸を行く
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いったん軽く登って…
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穏やかで美しい荒川の分流を渡る
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約200mぶりにやっと道床が回復
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甲府市有林も美しい苔の森
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ヘアピンカーブで上流に向き直す
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線路も枕木も覆い尽くす苔の道
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登ってきた軌道から見る遥か下の線路
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境界標で再び県有林に戻る
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荒川右岸の傾斜地は荒廃も酷い
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急流の支沢を渡る橋は落ちている
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第1堰堤の右岸を通過
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荒川が一気に近づく
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藪の中にやっと道床を見つける
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ブリキの古道標で正道と確認
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2065Mの渡河点らしき場所
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左岸も濯われ軌道の痕跡すらない
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少し進んでやっと線路が回復
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土砂に埋もれいよいよ追跡不能に
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うず高く積み上がった流入土
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第2堰堤脇を適当に踏んで通過
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一見線路に見えたがただの廃鋼材のよう
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奇跡的に登山道の痕跡が残った部分
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←と→の赤ペンキはもはや行先が読めない
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第4堰堤上の車道終点
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車道側を振り返るも倒木で道が見えない
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ちなみに車道跡もこのようなヤブ状態で、
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崩壊箇所もありまともに使えない
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第5堰堤へは藪漕ぎと遡行で到達するか、
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または急斜面の踏跡でトラバースしていく
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第5堰堤上の河原を渡り右岸山腹に取り付く
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薄い踏跡を斜めに登る
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ガレた右岸支沢を横切る
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あやふやな踏跡で森を進む
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森の中で小窪を左岸に渡る
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倒れた道標付近から右手の小尾根に取付く
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一直線に尾根を登る(後方の様子)
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なかなかの急登が続く
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一瞬登りが緩む地点
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矢印だけが残ったブリキの古道標
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尾根地形が消えて曖昧になる踏跡
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車道を横切る(当時工事中だった)
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水平になってきて道型は非常に薄い
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樹木が繁茂し道がほぼ消滅した一帯
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巨石の崩壊部を横断
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ほぼ水平の小さな踏跡が回復
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大弛小屋脇の小流の地点で登山道に出る