錫ヶ岳(仁加又沢索道跡の道) page 1 【藪径・雪径】

 日光白根山の南に峰続きの錫ヶ岳は、歴史的に多くの登路を持つがどれも定着せず、現在も一般登山道のない山として扱われている。どっしりと存在感ある山容が目を引く山だ。どこから登ってもかなりの距離があり、どのコースも車道部分が一般車通行止のため、登山口に入るのも徒歩となるため歩行時間が長い。ここでは仁加又(ニガマタ)沢の源流部である白根沢の索道跡を使って錫ヶ岳直下まで登るコースについて述べてみる。なお白根沢と言う名の沢は白根山東面にもあるが、ここでいう白根沢は別名アテラ沢とも呼ばれる仁加又沢の大広河原から南の部分を指す名である。

【錫ヶ岳の多様な登路】
 元来、錫ヶ岳は修験道の山であった。天平神護二年(766年)に日光を開山した勝道上人の入峰修行が室町時代に三峯五禅頂(さんぶごぜんじょう)として完成型となり、錫ヶ岳はそのうち「夏峰」と呼ばれる中禅寺湖を峰伝いに修行しながら一周する四十五日間の大難行の中で登られていた[1]。吉田の図によれば、柳沢川から登り白根山へと抜けていたようだ。錫ヶ岳とは行者が突く錫杖に由来するの説がある[2](異説もあり、木暮理太郎は「東小川村では鈴発知というている。錫ヶ岳は鈴発知から来たもので、それも篶竹に基因するものと思われる。」[3]としている)。夏峰の行はあまりに厳しく死者が続出し天正年間に廃止されたという。しかし修験道の行そのものは形を変えて続いたと見られる。錫ヶ岳から南に峰続きの宿堂坊山は行者の宿泊所があったと伝承される山だが、昭和十年に根利林業所の職人が夏峰が中止となる直前の弘治二年(1556年)に納められた聖堂の扉が付いた石祠を発見、その後ヤブに埋もれていたものが昭和六十二年に再発見された[4]。扉には宿堂坊山の名の由来となった「宿」の存在について記されていた。その宿跡から流れを起こすネギト沢の名も「禰宜処」に由来すると考えられ、一帯が修験の地であったことが分かる。

 今でこそ静かな錫ヶ岳は以前は伐採のメッカであった。なぜ伐採が盛んであったかの理由を探るには、明治維新により国有林化された林野の縁故引戻しが関係していると考えられる。これは国有林を元々の縁故者に無償で払い下げるというもので、申請し国の審査に通れば認められるというものであった。片品村内では不許可が相次いだが、明治二十九年の千明(チギラ)家、小野家による大面積の払い下げ申請が認可され、村内森林の多くが両家の支配下に置かれた[5]。起業家にすれば大変好都合な話で、このどちらかと交渉すれば村内の多くの木材資源を一気に入手できる訳である。その結果、森林の大部分が、幾らかの代償金と引き換えに三井物産(後に三井木材、十條製紙)、古河鉱業、関東水電(後の東京電力)など大企業の手中に収められた。開発困難な奥地であっても大資本を持つ企業は充実した設備で伐採を行い、発電用の道路や導水施設を建設した。その結果、錫ヶ岳では本格的な登山と開発時の設備を利用した容易な登山とが同時並行的に行われてきた。そして各コースの難易度は年代により大きく変化した。

 錫ヶ岳一帯が騒々しくなったのは、明治末期から大正、そして昭和初期に掛けての三十余年間である。近代登山の形態での入山は、記録に見る限り大正十年の黒田正夫らによる前白根からの縦走である。だがこの山行は探検的要素が強いものではなく、日光側の山林を所有する帝室林野管理局東京支庁の測量による二万分の一地図を閲覧し、並行して行われた陸地測量部が拓いた踏跡を利用してのものであった。陸地測量部が辿った経路を見ると、その踏跡も恐らく明治維新後もある程度続いていた修験の登拝道を使ったものであったようだ[6,7]。彼らは湯元からの白根山登山道の途中から稜線通しに登り、御料局図と陸側部図の相違のため赤岩滝の悪場を避けるのにどう下ればよいか悩みながら柳沢に下った。黒田らが地図や作業道を利用した測量登山は明治末期に行われたもので、測量の成果は山林開発にも大いに利用された。初めに開発されたのは泙川(タニガワ)である。古河鉱業は足尾鉱山運営に必要な木材伐採を進め、大正大正十四年には泙川流域の浅見(アザミ)沢に索道を通し以後錫ヶ岳直下まで伐採が行われた[8]。昭和十三年発表の記事を見ると、群馬側から登った熊倉が浅見沢の伐採事務所から途中まで伐採道を使い錫ヶ岳へ登った。最後は道がなくなったものの作業員が常駐する事務所から僅か二時間四十分で往復した[9]。今は廃村となった平滝に当時は宿があり、そこから往復六時間四十分の感嘆な日帰り登山であった。だが浅見沢の登路は昭和十三年の伐採事業終了により廃れたようで、同二十五年頃の奈良(ナロウ)の猟師は平滝から錫ヶ岳まで十時間と、伐採当時からは想像もつかない所要時間を示した[10]。昭和二十六~四十年の間、三陸木材工業により伐採が再開された[11]。当初は伐木は山越えの索道で片品川側に搬出され[12]、昭和三十五年頃に平滝まで車道が開通すると車道に切り替えられたようだ[11]。本格的な伐採事業だったようだが、登山者の報告がないところを見るとよそ者が入山できる状況でなかったのかも知れない。三陸木材が撤退し国有林になった昭和四十一年の記録によると、台風被害もあって平滝までの車道は人が漸く通れるほどに荒廃し、登山道は荷鞍峠を越えて広河原までは歩けたという[13]。この記録以後は全てアザミ沢遡行による登山である。

 仁加又沢の開発も少し遅れて始まった。片品川流域では昭和九年、小川の大きな支流仁加又沢(ニガマタ)一帯が上毛電力の子会社上毛土地森林の手に渡り、昭和十九年に三井物産配下の三井木材工業に譲渡されると下流側から伐採が進められた[5]。さらに同二十五年に関連会社の十條製紙に買収された[14]。なお仁加又沢は仁加下沢とも表記されるが、少なくとも明治時代から両者が併存しているのでどちらが正しいという訳でもないようだ。江戸時代に複数の地名表記が併存していた例は珍しくないが、地元民はおろか登山者すら滅多に入らぬ山奥のためそのままになっているのだろう。ちなみに地形図の「仁下又沢」は少数派で、「仁加又沢」の方が多い印象だ。山林開発と並行して、上毛電力から紆余曲折を経て水利権を継承した東京電力は丸沼発電所の発電能力強化のため、仁加又沢からの導水を目論みた。昭和二十八年時点で仁加又沢下流域の水をトンネルで一ノ瀬発電所に導水する工事が行われていた[15]。昭和四十年代と推定するが、流部の白根沢から丸沼発電所に引くよう改修されている。その後伐採は仁加又林道の延伸を伴って次第に進められ、少なくとも昭和三十八年までに白根沢に達した[16]。錫ヶ岳北の二一三八独標台地や二〇〇〇米付近の台地が皆伐され、作業小屋が設けられた。三十五年に北から稜線のヤブを漕いで錫ヶ岳に達した登山者は、山頂で「大広河原より立派な山道」を見た[17]。昭和三十九年、宇都宮山岳会がこの県境の稜線に道を拓いた。彼らによると錫ヶ岳の北峰に笠ヶ岳と仁加又沢からの伐採道があり、仁加又沢の道は支尾根を下り途中に二軒の伐採小屋の廃墟を見て白根沢出合付近に下るエスケープルートだという[18]。錫ヶ岳から二三五一独標の北を捲く辺りで白根沢出合への道を分け、笠ヶ岳を経て、三ヶ峰沢右岸尾根まで続く作業道については昭和五十一~五十四年の報告もある[2]。だがこの白根沢左岸尾根の道は、現在利用できるか不明である。当時は県境稜線を歩くのが本筋であって、伐採道を使ってで錫ヶ岳だけを往復するような登山スタイルは見られなかったようだ。

 むしろ同時期によく使われたのが柳沢林道からのルートである。こちらも中宮祠林業の山林開発で造成された柳沢林道を使った登路である[19]。中禅寺湖側の千手ヶ原からのルートは、古来から修験道の行者が使う道があり人里からも近く、令和七年現在シーズン中の休日なら早朝から日に十五本のバスが運行され交通の便も良い。国境縦走路を整備した栃木県山岳連盟は、柳沢かネギト沢に下れば柳沢林道に出られるので縦走中のエスケープルートになるとしている。川崎精雄、横山厚夫など、公共交通機関を使って錫ヶ岳だけを日帰りする登山者は柳沢林道から登るようになった[20,21]。柳沢林道が昭和五十一年までに標高一八三〇米の終点に達すると[22]、一八七四独標の尾根伝いに国境稜線までの道ができ、北上すれば錫ヶ岳に至る。

 

【仁加又沢索道跡の道】

 現在一番良く登られている仁加又沢水系白根沢の道は比較的新しく、昭和四十年代の白根沢伐採と、それに続く白根沢改良工事、丸沼高原スキー場拡大により出現した道である。白根沢を一九八五~二〇〇五米変則五股まで遡り、そこから幾つかのバリエーションに分かれ錫ヶ岳の稜線に上がる。最近十数年の記録が多いネット検索で一番良くヒットする経路である。

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白根沢1985-2005m変則五股(基盤地図情報より作成)

 前項で述べたように、仁加又沢上流の白根沢は、昭和三十年代に左岸台地上が伐採されたが谷沿いはまだ手つかずだった[16]。しかし昭和五十一年までに白根沢の谷は見事なまでに伐採され、右岸に車道が設けられた[23]。谷の植生が標高に応じて一面のダケカンバの成木かシラベの低木であることからその痕跡は現在でも明瞭である。この車道は現時点では荒廃や工事による消滅のため断片的に歩行者が通行できる程度の廃車道で、大きな右岸支沢が入る一八五〇米地点で終わっている。白根沢の伐採と前後して、前述の丸沼発電所取水口が一七七八米に設置され、その保護も関係あるのか昭和六十二年度には上流に五基の砂防堰堤が建設された。さらに平成七年前後と推測されるが白根沢出合と取水口との間に二基が追加された[24,25]。荒廃車道の終点からは当時の作業道が比較的よく残っている。不明瞭な部分もあり道として頼るほどしっかりしたものではないが、沢を左右に渡り返しながら一九八五~二〇〇五米変則五股まで続いている。左岸尾根台地からの窪が先に入り、すぐ上で右岸に二本、更に上で右岸に小さな窪と五月雨式に合わせる上下に長い五股である(右図)。登っていくとまず右に窪が分かれ、すぐ先で今度は左に二方向に割れた窪が分かれる。さらに少し先で左に窪状地形が分かれていて、これが(仮称)池塘のコルへ上がる窪である。東側に小さな池がある国境稜線の二二一七地点の小規模なコルをここではそう呼んでいる。この窪にほぼ沿って一直線に索道跡の切り開きが稜線へ駆け上がっている。一帯の伐木を索道を使って二〇二三米の索道下部まで下ろしていた。空中写真の痕跡から推定するところ恐らくこの場所は最下端というより中継点であったと思われ[23]、一八五〇米の車道終点で索道からトラックに積み替えていたようだ。伐採は標高二二〇〇付近まで行われ、その跡はヤブめいた天然更新されたシラベの低木帯になっている。訪問時はほぼ残雪に覆われていたので無雪時の様子は雪が消えていた短い二箇所でしか確認できなかったが一応踏跡があり、時折テープのマーキングが見られた。切り開き部にも次第に更新樹が生育し、場所によってはほぼ切り開きが消滅していた。従って利用できる明確な道があることは確認できなかったので、少なくとも訪問した残雪期については良い経路であったとしか言うことができない。昭和五十年代に三重泉沢に入る際に岡田はいつも東京から便利に入山できる白根沢のルートを使い丸沼高原スキー場から錫ヶ岳へ三時間で到達したとい、確かに今回訪問時の実歩行時間とほぼ同じである。岡田が歩いた昭和五十年代より荒廃が進んでいた可能性がある一方、残雪を利用し荒廃の影響を低減した面もある。ただし岡田が国境稜線に上がるのにこの索道跡を通ったかは不明である。変則五股からはこの登路のほか、国境稜線二一七〇独標鞍部西下の錫の水場へ詰め上がる窪がよく歩かれているが、遡行か踏跡を歩くのか未確認なので分からない。

 最後に、登山口となる丸沼高原スキー場の状況について触れておく。仁加又林道は私有地内の林道であって侵入が物理的に阻止されているため、通常はスキー場内を通過する白根山登山道からの入山となる。平成十年に日光白根山ロープウェーが開業しスキー場が拡張された。仁加又沢に滑り込むおおひろコースが出来たことで、仁加又沢直前までスキー場内の歩行となる。もっともおおひろコースは平成二十五年に営業停止となっている。第三リフト乗り場付近の旧国道からスキー場に取り付き、そのまま第三リフト沿いのゲレンデを登ってショートカットされる方もおられるが、西側から回り込んでリフト上部に出る車道を歩くのが便利だ。この道はロープウェイ最終便に乗り遅れた白根山登山者の下降路に指定されている。螢塚山分岐の先で白根山へ向かうメインルートと分かれ、仁加又沢へ下る林道に入る。おおひろリフト下の小屋を見てゲート脇を通過、折り返して下ると仁加又沢本流を取水施設下で渡り、白根沢出合の土場跡らしい地点で仁加又林道に出合う。敷地が広すぎるため三叉路である感覚がなく、単に道が左に曲がる感じに見える。そこから白根沢右岸の林道に取り付く実質的な登山口である。

[1]吉田利雄『日光』 国際情報社、昭和五十年、「日光開山と勝道上人」一三三~一三七頁。
[2]岡田敏夫『足尾山塊の沢』白山書房、昭和六十三年、「 三重泉沢・アザミ沢」一八~二二、「香沢」七九~八一、「モミノキ沢(南沢)」八二~八四頁。

[3]木暮理太郎「上州の古図と山名」(『山岳』六年三号、二〇四~二一二頁)、大正十二年。
[4]泙川「宿堂坊山の宿跡と石祠について」(桐生山野研究会会報『回峯』、号数不明)、昭和六十三年。https://akanekopn.web.fc2.com/yama/sanyaken/sanyaken5.htmlにて概要を閲覧可能。

[5]片品村史編纂委員会 編『片品村史』片品村、昭和三十八年、「七 現代 4 近年の山林関係」三三七~三三九、「七 現代 5 近年の伐採事業」三三九~三四二頁。

[6]陸地測量部『点の記』、「錫ヶ岳測點」、明治四十一年。

[7]陸地測量部『点の記』、「宿堂坊趾測點」、明治四十一年。

[8]水資源開発公団栗原川ダム調査所・利根村教育委員会/発行『幻の集落-根利山-』平成十五年、「鉄索でつながれた集落」五〇~六九頁。

[9]熊倉盛男「六林班峠から錫ヶ岳に登る」(『ハイキング』七三号、三一~三三頁)、昭和十三年。

[10]平岡静哉「泙川本谷から宿堂坊山へ」(『新ハイキング』四五号、四六~四八頁)、昭和三十二年。

[11]利根村誌編纂委員会 編『利根村誌』片品村、昭和四十八年、「第四章 産業 六 その他 三 三陸木材工業株式会社平川事業所」五七二~五七四頁。

[12]佐々木一男『秘渓を巡る釣りの旅』つり人社、平成十二年、「廃村跡に哀愁の泙川」一〇一~一一八頁。

[13]市川学園山岳OB会「足尾山塊三重泉沢」(『岳人』二三八号、一〇四~一〇七頁)、昭和四十二年。

[14]白井四方「菅沼山林概説」(『調査と研究』一二号)、一~四頁、昭和二十六年。

[15]野上・山口「片品川建設所だより」(『東京電力株式会社社報』二三八号、六八~七一頁)、昭和二十八年。

[16]国土地理院『空中写真(日光)KT631YZ(1963/11/04)』、昭和三十八年、C1-163。

[17]岩沢寛「記録速報 日光前白根山─錫ヶ岳─宿堂坊山縦走」(『岳人』一五三号、一二〇頁)、昭和三十六年。

[18]栃木県山岳連盟「日光白根から皇海山」(『山と渓谷』三一六号、一一八~一一九頁)、昭和四十年。

[19]栃木県山岳連盟「白根庚申山縦走」(『山と渓谷』二八五号、八八~八九頁)、昭和三十七年。

[20]川崎精雄・望月達夫・山田哲郎・中西章・横山厚夫『静かなる山』茗渓堂 、昭和五十三年、中西章「錫ヶ岳」一五四~一五五頁。
[21]浅野孝一・打田鍈一・楠目高明・横山厚夫『関東百山』実業之日本社、昭和六十年、横山厚夫「錫ヶ岳」二六九~二七一頁。
[22]国土地理院『空中写真(尾瀬)CKT762 (1976/10/7)』、昭和五十一年、C14-29。
[23]国土地理院『空中写真(尾瀬)CKT762 (1976/8/22)』、昭和五十一年、C19-9。

[24]国土地理院『空中写真(中禅寺湖)KT903Y (1990/11/6)』、平成二年、C2-6。

[25]国土地理院『空中写真(日光)KT20005Y (2000/11/5)』、平成十二年、C2-2。