大菩薩峠旧道 page 2 【廃径】

 旧道のうち、現在使われていない区間(旧大菩薩峠~フルコンバ小屋)を実際に通ってみた。国中側は現在も登山道として使用されているが、丹波・小菅側は放棄され廃道化していた。
※富士見山荘~旧峠は、一時廃道でしたが、現在は登山道として使われていることが分かったので、訂正いたしました。(H30.11.26)

●富士見山荘~旧大菩薩峠

 この区間は一時廃道化していたらしいが、現在は一般登山道として道標が立てられていた。富士見山荘から草深い旧道に入り、山腹を絡んで姫ノ湯沢を渡った。神部岩に至る富士見新道(現在廃道)を分岐し、山腹に取り付いた。
 峠道はよく踏まれていて、大菩薩峠の北側にある一九四〇圏米峰から東に出る小尾根に絡んで、低い笹を九十九折に登った。今は笹に覆われ人が歩く幅しか残っていないが、元々馬道だったので道幅の広い造りであるのが感じられた。一八七〇米圏で真っ直ぐ小尾根を詰める踏跡を分け、旧峠に向け登りながらトラバースを始めた。難なく旧峠にある「さいの河原」避難小屋が見えてきた。旧峠一帯の荒涼とした小鞍部は、賽の河原と呼ばれている。侵入防止のロープが切れた地点で大菩薩峠からの一般登山道に出た。

 

⌚ฺ  富士見山荘-(30分)-旧大菩薩峠 [2018.9.23]

●旧大菩薩峠~旧荷渡場

 峠の東側は東京都水源林のシラビソ植林地だ。昭和二十二年の時点で立木が少なかった[22]が、四十二年には植林されていた[23]という、かなり古い植林地になっている。植林時の作業踏跡等で荒れ、旧峠道はほとんど判別できなくなっていた。植林道跡なのか分からぬが、水平に行く雰囲気が微かに感じられた。小室川・小菅川分水尾根の南側山腹を緩く下り気味に進むうち、踏跡は次第に何とか分かる程度になり、すっかり落ち着いた古いガレを通過した。
 道が植林地の範囲を外れると、風格のある天然シラビソを見るようになった。所々で道が良くなる部分は、馬道跡が残った部分なのかも知れない。伐木や倒木を除ける踏跡があるので、数十年前の植林等の作業当時には、恐らくまだ使われていた可能性がある。道型がしっかり残る部分が現れるようになったが、倒木や落ちた枝が道上を塞ぎ、結構荒れた様子だった。半ば土に埋もれて落ちいた作業着的な人工物は、人造繊維っぽいので数十年前のものだろう。
 旧峠道を辿る上でポイントとなる点がある。何の変哲もない山腹の道に被さるように横たわる一本の倒木、ここが旧峠道と古い作業道の分岐になっている。そして旧峠道は倒木の反対側に続き、作業道は横を掠めるように分かれているので、峠から下ってくると自然と作業道の方に導かてしまう。この古い作業道は北側の自然林と南側の植林の境界に付いており、五十米ほど水平に進んで小室川・小菅川分水尾根に乗り、小さな電光型を刻んで尾根を下り、環状林道に出合うまで続いている。多少不明瞭ながら、まだ何とか使える程度のものだ。寄り道して作業道に入ってみたところ、興味深いものが見つかった。峠から来て作業道がちょうど尾根に乗る一八八〇米圏地点に石標があり、各面に、東京府、内○部標(○は読み取れない一文字)、No.6、と刻まれている。近くには朽ちた角柱が立っていた。山梨県に「東京府」とは如何なることか。首都の水質悪化に悩んでいた東京府が、山梨県内の水源地を買取り森林経営を初めたのが明治三十四年であり、それは東京市に移管される明治四十三年まで続いた。明治時代の各府県の山林管理は、一般に内務部山林課のような組織で行われていた。当時の東京府は度重なる組織改定のため複雑な変遷を経ており、明治三十四~四十二年の間で内務部が農務関係を扱っていたは、三十八年四月までと四十年七月からである。明治三十四年に土地を入手した東京府は、その直後に管理用の様々な境界標等を順次設置したと推測され、従ってこの石標も明治三十四~三十八年の間に設置された可能性がある。とすれば、読めない文字は「内務部標」であったと想像される。

 

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旧荷渡場付近
(基盤地図情報 数値標高モデル5mメッシュ(標高)を使用)

 一方、倒木の向こうに続く旧峠道は、尾根の南面の植林地内を小刻みな電光型を交えて下っていた。道の中央に倒木があったり植林された木があったりして、道型はしっかりしているが様々な障害物のため歩きにくかった。植林の時点ですでに旧峠道は廃道になっていて、作業道の方が現役で使われていたものと思われる。きっちり尾根筋を追わず少しでも雪解けの早い南面を絡んでいるのは、昔人の見識であろう。
 (この付近2018.10.14改訂・追記)旧峠道は、一瞬尾根に乗った後、また山腹の道となった。一八〇〇米近くまで下ると、一般登山道と見紛うほどの良い道になった。著者がこの旧峠道を発見したのは、小室川の金場沢の遡行時、詰めを嫌って小室川・小菅川分水尾根の南側を走る峠道(一般登山道)に逃げようとした時のことだった。環状林道(廃道)を通って尾根の南に回り、ちょうどこの地点に出た。分岐点周辺だけが不明瞭のため、旧峠道を通っていると気づかないかも知れない。
 その時、幅広い立派な道に出たのを見て、現在の峠道であると疑わなかった。この峠道上に指導標の類が全く無いのが変だと思ったが、現在の峠道の数十米上を並行する旧道は、道の造りとしては完全なものだったからである。なお環状林道はここで交差せず、数十米先の旧荷渡場で分かれて下方へ下っている。

 

⌚ฺ  旧大菩薩峠-(15分)-環状林道 [2018.4.21]

●旧荷渡場~フルコンバ

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水道行政を統括した東京市助役・田島勝太郎が著した「奥多摩」の挿入図(中川金治技師の稿)が示す環状林道(荷渡場~一ノタル)の位置。当時(昭和十年)、既に旧峠と旧道は消滅とされていた。

 数十米下方にある現在の荷渡し場から来る環状林道は、東向きに登ってきて旧峠道に合流していた。前述したように峠道とは十字の交差点を形成せず、互い違いの変則的な交差となっていた。この交差の仕方では、旧峠道を下ってくると見え難く、何気なく通った過去二回にはこの細い廃道に気づかず、意識して探しながら歩いた三回目にようやく気づいたものであった。なお下から来た環状林道が、あたかも旧峠道と交差するかのごとく、小室川・小菅川分水尾根へと登っていくような踏跡が見られるが、これは尾根を行く作業道と思われる。この作業道は前述の東京府時代の石標を通り、最終的に旧峠道と合流する。
 そこからほぼ平坦になった道を水平距離で約五十米行くと、道の左に小屋でも立ちそうな小平地があり、外壁の下部と思われる石積みがあった。ここに小ぶりな小屋があったものと想像された。その位置は、現在の峠道にある荷渡場の約四、五〇米上方に当たり、田島が報告する旧荷渡場[3]の位置とまさしく一致していた。旧峠道にはこれ以外に小屋場がないので、恐らくこれが明治十二年以前の荷渡場の痕跡であろう。石積みが約百四十年間変わらず残っているのは理解できるが、この前後の旧道が見事に残されているのは意外だった。倒木や崩壊の影響がない尾根に近い緩やかな地形と、草木の繁茂を許さぬ厳しい気候とが成した技だろうか。
 ヤブ勝ちな道型は尾根の僅か南側に絡んで、曲がりくねりつつしっかり続いていた。払い除ける枯死笹ヤブや倒木・枯枝はさほど手強くなく、歩き難いが迷うことはなかった。旧峠道はフルコンバの直前で右下を並走する現在の峠道に合流した。伐採の影響か分からないが、合流点付近で旧峠道は急速に衰えほぼ消滅していたので、現在の峠道を歩いていてこの道に気づくことはあり得ないだろう。尾根上の小広い鞍部であるフルコンバには、休憩用のベンチだけが置かれていた。東側に昭和四十年前後の小室川伐採時に使われたと想像される、造林小屋跡の整地を目にしたが、この鞍部には先に見た旧荷渡場のもう一代前の荷渡場があったという。

 

⌚ฺ  環状林道-(15分)-フルコンバ [2017.9.3]

【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)

  • 姫ノ湯沢左岸尾根の、富士見新道からの連絡路合流点(1770M付近)
  • 旧大菩薩峠(賽の河原)

 

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勝縁荘上で不明瞭な旧道に入る
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富士見山荘からの道に合流(直進が旧道)
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一般登山道となり明瞭な旧峠への登り
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前方稜線がもう旧峠だ
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避難小屋脇で旧峠に出る
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峠を越す曖昧な痕跡がロープの先に見える
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初め不明瞭だが直ぐ薄い踏跡になった
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幅広の道型が尾根の南面を緩く下る
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旧峠道は倒木の先に続く(左は作業道)
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作業道で尾根に乗ると東京府の石標が
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読めない刻字は「内務部標」か?
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逆「つ」の字型カーブがはっきり残る馬道
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道の中央に植林や倒木があり戸惑う
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亜高山帯の森を抜け道が落ち着いてきた
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一般登山道並の良道となる
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右下から環状林道が合流(振り返って)
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広い敷地の先に旧荷渡場の石組みが残る
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尾根を背に両脇を石組みで囲んだ旧荷渡場