雁掛峠道 page 1 【廃径】
山深くにある中津川の秩父鉱山は、小倉沢を中心に幾つもの鉱床を有する、かつて栄えた大規模鉱山である。江戸時代に始まり、大正~昭和中期にかけ繁栄したが、山奥で輸送コストが嵩むうえ人件費も高騰すると、輸入品には叶わなくなったのであろう、採算悪化を理由にごく一部の品目を除き休鉱となり、今は廃村に往時の面影を見るのみである。
秩父市の遙か上流にある鉱山に車道が通じたのは昭和十二年頃のこと、それ以前は山越えの輸送で鉱山を支えていた。特に鉱石輸送用の索道が完成する大正八年以前は、距離的に近い上州神流川の村々とのやりとりが重要な役割を果たしており、徒歩もしくは駄馬により資材を運び入れ、製品を搬出していた。索道ができた後も、人手や物資の供給は、なお上州側への依存が大きかったようだ。
【雁掛峠道の成り立ち】
秩父鉱山の中心地小倉沢地区は、往時は八丁峠、赤岩峠、雁掛峠の三つの峠で外界と結ばれていた。そもそも中津川地区の外界との交通路は、中津川沿いに下るか、大峠を越えてかつての中津川枝郷の白井差に抜けるかであった。しかし前者は丸木橋で流れを何度も渡り返し、岩壁に渡した桟橋を連ねる険路、後者は最短距離ではあるが小森川沿いの道が悪く、物資の大量輸送には向かなかった[1]。代わりに開かれたのが、遠回りながらもより流通に便利な先に述べた三つの峠である。
八丁峠を越えて武州赤平川の小村・三田川村の坂本に抜ける三山道(旧三山村、後に三田川村、現在の小鹿野町、に抜けることから)に対し、赤岩峠、雁掛峠を越える道はいずれも上州神流川の十石峠街道の要衝・新羽(ニッパ)に通じ、重要性が高かったと考えられる。かつての十石峠街道は、中山道に次ぐ重要な信州への街道であり、中山道が通らない武州西部と物資の運搬に重用された。米が取れない秩父や上州の山間部の穀類は、信州米により支えられていた。新羽は、そうした物流や行商人の拠点として繁栄する、小さな商都(いや商村か?)であった[2]。
新羽に向かう二本の峠道は、山を越えた上州側の所ノ沢(ショノサワ)集落(添付図の「野栗沢」、「胡桃平」の中間あたりの数戸の集落)で合流して一本になる。山越え部分だけが複線になっていて、標高は赤岩峠が一四二九米、雁掛峠が一三六八米(基盤地図情報による)と赤岩峠のほうが数十米高く、距離的には大差ないが多少赤岩峠道が短そうに見える。
並行して二本の道が存在した理由は明らかでないが、坑道が広範囲に分布する秩父鉱山の場合、それぞれに近接して、赤岩峠道には道伸窪坑、雁坂峠道には赤岩坑が存在した。坑道によって道を使い分けていたと考えるのが合理的であろう。もちろんこれらの坑道は本村のある中津川集落へも山道で連絡していたが、険悪な神流川沿いに下れず八瀬尾根を越す必要があり、更にそこから秩父へと大峠を越すか、危険な中津川の流れを下るしかないので、全く実用的ではなかった。一方新羽へは峠までひと登りすれば、あとは下る一方である。雁掛沢の西隣六助沢の六助坑も合わせ、この三坑道はそれぞれ専用の峠道で新羽と結ばれていた。別項ですでに述べた、六助坑からスミノタオを越え所ノ沢に下る六助道が馬道であるのに対し、地形が険しい雁掛峠道は人の道であろう。
さてここからが本題である。赤岩峠道、六助道には確固たる歴史や記録があるのに対し、雁掛峠道には、ともすればその存在さえ疑いたくなってしまうほど、明確な情報が存在しない。六助道については、別項で述べたとおり、原全教、坂本朱らが詳しく報じている。また赤岩峠の方は、江戸時代の多くの資料に記載された武州を結ぶ間道の一つであり、その存在は確固たるものである。武州側は江戸時代の鉱山図に金山から登る「上州野栗沢道」が掲載され[3]、上州側は山中領の御林絵図[4]を見ると、赤岩と高僧(点の記[5]により現在の「大ナゲシ」と知れる)の間を抜ける秩父への道が記載が確認される。六助道の情報が昭和以降のものであるのに対し、赤岩峠道は、当時原則として立入が禁止されていた幕府管理の御林を通過することから、この三峠のなかで唯一、古くから存在した公認の通路であったと思われる。
では雁掛峠道の存在は、どのように確認されるのだろうか。大正元年測図の初版の五万分の一地形図「両神山」では、金山から雁掛峠を越えて野栗沢に下る歩道が記載されている。従って何らかの道があったことは、間違いなさそうだ。しかし調べてみると、実際に通った、いや見たという文献すら、一つも見つけられなかった。唯一、坂本朱が「金山から雁掛峠頂上まで一時間だ。」[6]と解説しており、本人が歩いた確証はないが、六助道から雁掛峠に抜ける巻道を知っている位だから、歩いたことがあろうと想像される。だがいずれにせよ、東京から比較的近く、著名な両神山の登山口の一つでもある金山から登リ出す峠としては、この情報不足は甚だ不自然である。
そもそも雁掛峠道の成り立ちはどのようなものであったろうか。中津川集落近辺に始まった鉱山開発は、天明五年(一七八五年)には、小神流川流域のすずの平(現在の道伸窪坑)・輪名場沢(金山付近のやや下流)の試掘におよび、弘化ニ年(一八四五年)から雁掛沢、六助沢で本格的な開発が始まった。会所が設置され、鉛の産出が盛んに行われた[1,7]。嘉永六年(一八五三年)頃の雁掛沢では、本流の赤谷川(現在の金山沢)沿いに鉱石を選別する板屋が立ち並び、周囲には精錬所で使用する炭を焼く煙が立ち上っていたという。その様子が、絵図に生き生きと描き出されている[3]。絵図には他に、雁掛峠を越える「山中道」(山中とは上州神流川流域の多野郡の名称)も描かれており、少なくとも幕末期には雁掛峠道は存在していたとみられる。繁栄ぶりからすると、新羽との間で盛んな物資輸送が行われていたと推測される。新羽と雁掛沢の鉱山を結ぶ物資運搬道があったとの伝承は、後に原全教も記している[8]。
道の興隆は、自ずと鉱山の状況に左右されたようだ。中津川と上州を結ぶ主経路の赤岩峠ですら、休鉱期の昭和六年には獣道になっていたというから、秩父への車道の開通後の昭和十六年の鉱山図には、赤岩峠道は載っているが雁掛峠道は記載されていない。当時すでに、鉱石は索道で、物資は車道でいずれも秩父とやり取りされるようになっており、上州との交通は、赤岩峠のみが僅かに神流川流域に本拠地を持つ労働者の徒歩移動に使われていたようだ[9]。逆に、雁掛峠道の方が(赤岩峠道より)道が良いとの記述もあるが[10]、根拠の明示がない伝聞である。また「昭和十二年、黒沢和三郎の子供、孝(六歳)が野栗から六助まで雁掛峠を越えている。」と記述した資料[9]もあるが、馬を使った六助鉱山までの輸送を担う馬との同行だったというので、越えたのは雁掛峠というのは間違いで馬道が越えるスミノタオであろう。民俗学者の飯野頼治は、著書の雁掛峠の項で、馬背で上州に鉱石を搬出した旨記しているが、よく読むと秩父鉱山と上州を結ぶ各峠全般のことを書いており、雁掛峠に特定した情報を示している訳ではないことが分かる[11]。麓に鉱山町の小倉沢集落を擁する赤岩峠道が、細々とながらも現在まで使われているのに対し、雁掛峠道は作業員が小倉沢集落で生活し鉱石輸送も索道化されると、輸送路としての機能が失われ、急速に廃道化したものと思われる。つまり江戸時代に鉱山を支えていた雁掛峠道は、次第に影が薄くなり、昭和十年代の輸送網整備によりほぼ往来が途絶えたと推測される。
【廃道化した以後の所ノ沢】
昭和三十七年に雁掛峠越を試みた明大隊は、赤岩峠道が「半メートル幅のいい道」であったのに対し、雁掛峠道は大捷坑先の炭焼き小屋までしか通っておらず、そこから雁掛峠までをヤブ漕ぎで登った。上州側への下降路に関する二つの分隊の報告は、「あった」、「探しても見つからなかった」と分かれるが、少なくとも実際に下りはしなかった[12]ので、事実は不明である。翌三十八年にも明大隊は金山、所ノ沢の両側から雁掛峠に登ったとの記録があり、ルート詳細は不明ながら自然に考えれば当時の地形図が示す雁掛峠道を通ったと推測される[24]。
昭和五十年代、所ノ沢に大規模な伐採が入った。下流の集落周辺で始まった伐採が、車道の伸延に伴い沢の全域に及んだのである。奥名郷から山腹を伸びてきた車道が、尾根を回り込んで所ノ沢左岸の上流域に伸びてきたのが昭和五十年のことである。それに伴い当時の車道先端部の下方、すなわち座禅堂方向への斜面の伐採が行われた[13]。翌年には所ノ沢沿いに下から進んだ造林作業が大滝上の右岸に達した[14]。五十五年までに車道は宗四郎北の一一七三独標付近に及び、スミノタオに突き上げる所ノ沢右俣(仮称)が伐採された[15]。この時点で、六助道の上州側は昔日の姿を失った。さらに車道が六十年までに宗四郎北尾根直前に達すると、伐採は所ノ沢本谷とその右岸にまで及んだ[16]。車道を起点として、谷を挟んだ対岸までの伐採が進行したのである。これに伴い、かつて雁掛峠道が走っていた一帯も、大変貌を遂げたに違いない。平成二年までに、車道は宗四郎北尾根の先まで伸びていた。伸延のペースが著しく落ちたのは、所ノ沢両岸の伐採が忙しかったためと思われ、本谷は大滝周辺やその上の中流域がほぼ皆伐され、谷の一〇五〇米付近までとその上側斜面、大ナゲシ直下の一四〇〇米近くまでが丸裸になった[17]。しかし幸いなことに、何故か伐採はここで止まり、埼玉側が完全に伐採・植林されたのに対し、雁掛峠の北面の天然林は僅かながらも残された。車道も平成七年までにごく僅かな伸延を見たがそこで停止した[18]。
雁掛峠北面に僅かな天然林が残された理由は不明である。所ノ沢一帯の四二林班は株式会社吉本の社有林である。旧社名の与志本といえば、ご存知の方も居るだろうか。佐久の木炭問屋に始まる、明治時代から続く名門企業で、上野村を重要拠点の一つとしている。村内に国有林に次ぐ広大な森林を保有し、隠然たる力を有しているようだ。何しろ吉本社有林の伐採のために、上野村に村営太尾林道を、さらに県林務部(現在の森林環境部)に保安林管理の名目で作業用車道(大ナゲシ線)を開設させたらしいのである。平成の初期、吉本は営業部門を切り離して日商岩井(現・双日)傘下として全国規模の事業展開を行い、自身は木材生産に特化しつつ東北地方にも進出して事業の拡大を図った。所ノ沢伐採が止まったのが、事業拡大により余力がなくなったためかは不確かだが、最近の吉本は環境保護にも注力しているので、一一小班の天然林は当面は安泰だろう。
一方、所ノ沢は荒廃が進んでいる。平成に入り、上野村周辺でもシカの食害が深刻化していた。ヒノキ植林ではクマ剥ぎならぬシカ剥ぎにより樹皮が剥き取られて枯死する被害が発生し、また天然林も含め林地の低木やスズタケが被食を受けて枯死することで林床が裸地化した。このことが、元々、チャート、頁岩、泥岩が多いため脆い上野村の表土流出を加速した。平成十一年八月豪雨による所ノ沢集落での家屋流出と氾濫、十九年九月の台風九号による野栗沢の土石流による孤立など、近年水害が多くなっている。現在の所ノ沢は、河床に巨岩や大きな礫が多いため遡行しづらく、山腹は砂か腐った雪のように崩れやすい蟻地獄状で、登るのも一苦労である。
【所ノ沢に関する記録】
有名な両神山に隣接して国境を越える雁掛峠道は、平成十三年測量(同十五年発行)の二万五千分の一地形図以前までは、常に地形図に収載されていた。従って峠道として廃道化した後も、作業道、登山道などの形で使われていた可能性が考えられる。しかし調べた限り、経路に関する確実な説明がない前記の明大の記録以外、文献として見つけることができなかった。峠越えと行っても、埼玉側は植林帯なので作業員が足繁く通ったことは間近いなく、記録を探すに及ばない。問題は群馬側の所ノ沢を行く部分である。
そんな中ただ一つ目に留まった具体的な情報が、長沢氏の記録である。その貴重な記録は、「山から降ってくる雪」(私家版)[19]で詳細に報告されていた。氏は平成六~八年に掛け何度か所ノ沢を探り、雁掛峠道、六助峠道の所ノ沢部分を踏破している。平成六年といえば、車道の造成と所ノ沢の伐採・植林が一段落した直後、いわば半世紀ぶりに所ノ沢が賑やかになった直後で、歩道が多少見えやすくなっていた時期である。長沢氏が起した概念図には、現在とは全く異なる、眼を見張るような歩道網が描かれていた。宗四郎北尾根を車道が回り込む地点から、真東へと支沢へ下り支尾根を乗越し、所ノ沢本谷一〇七〇米付近に降り立ち、右岸の植林へ入る作業道、一一七三独標近くの車道から尾根を下って、九五〇米付近で所ノ沢本谷を渡って右岸植林に入る作業道、前記二つの作業道を右岸植林を通過して結ぶ作業道があったという。雁掛峠からの下りは笹の中に見過ごすほどの小さな踏跡があったが、沢に下ってからの本谷に沿う道は、伐採に伴う倒木で埋もれていたそうだ。右岸の不明瞭な作業道は、一面の植林中の複雑な地形を幾度も分岐・集合しながら大滝の遙か上を巻き、座禅堂(七五〇米付近左岸、現在は小屋跡)の少し上で峠道に合流していた。この合流点については、平成十六年に大滝を訪問したすうじい氏の付図にも現れている。この右岸の大高巻きは明らかに作業道と見えるが、長沢氏は左岸の岩壁をうまく高巻く峠道らしきも発見しておられる。大滝上の本谷八七〇米付近から左岸の急斜面を登ってガレ上端をトラバースし、岩塔根元の九一四米鞍部で左岸岩壁の尾根を越え、大滝ゴルジュの下に抜けるものだったらしい。鞍部には山の神が祀られていたという。現在、両側とも登り口が流失しており、残念ながら気づかず通過したため、現状は分からない。
最近所ノ沢は、手頃な溯行先として一定の人気があると見え、ネット検索で近年の溯行記録が散見される。平成二十九年のひろた氏による下降路としての記録もあるが、歩道についての記述はなく、やはり沢沿いの道は見られなかったようだ。名の知れたトップクライマーのひろた(弘田)氏は、驚くべきことに大滝をウォーターシューズでスタスタ歩いて下ったという(驚愕の大滝下り、だめならこの頁の一番下の方)。moto.pこと本山氏に続いて、今や弘田氏も遙か遠くに旅立たれた。トップクライマーの宿命とはいえ、何ともやるせないことこの上ない。
【雁掛沢側の道】
これと言った登山記録が見られないのは、雁掛沢側も同じである。道の付き方を見ると、昭和二十七年までの地形図では、ある程度正しく道の位置が表現されていた。金山から赤岩沢・雁掛沢中間尾根乗越へと小窪を登る部分では、折り返しながら左岸山腹を登る様子が見られ、これは昭和四十年前後の鉱山地図[20]、平成元年の埼玉県森林図[21]とも一致する。特に大縮尺の鉱山地図では、赤岩国有林七六林班内の雁掛沢左岸の標高約一二二〇米の山腹にある赤岩坑の一つの坑口に至る道筋が、正確に示されているので大いに参考になる。
赤岩坑から雁掛峠までは、地形図によると初め水平に進み、沢に追いつかれると沢に絡みつつ峠に達しているようだ。鉱山が最盛期を迎えたのは昭和四十年頃だが、三十七年に金山から雁掛峠を目指した明大隊が残したメモ程度の記録[12]によると、彼らが取った道は雁掛沢沿いの道であり、大捷坑前の事務所を通過し、廃液か何かを通す鉄パイプ沿いの道を登り、炭焼小屋の先で道が消え、雁掛峠まではヤブ漕ぎもあったという。やはり当時の道は赤岩坑付近で途切れ、峠へ登る部分は消滅していたようだ。また要領を得ない記述ながら、坑道のトンネルで雁掛沢の山腹に入り、水平道を歩いて沢に出た分隊があったことから、恐らく金山から赤岩坑を経て雁掛沢に至る道があったものと想像される。幾つもの坑道や作業動があったが、いずれも事業に必要な範囲に留まり、当時は既に雁掛峠には達していなかったようだ。
峠道付近で操業していた赤岩坑も昭和四十七年に終掘となり[22]、鉱山道部分も廃道化の一途を辿ったのであろう。
【峠の位置】
峠道は国境超えの部分が消滅したため、峠の位置について疑念が生じている。峠の役割からして一三六八米の最低鞍部が峠と考えるのが自然であり、実際そこには小さな石祠が置かれている。付近の上州側はたいてい険しい地形となっているが、鞍部の北側は比較的傾斜が緩いため下りやすく、どう考えてもこの鞍部が峠とみるのが妥当であろう。
地形図においても、最新図(二万五千分の一地形図「両神山」、平成二十七年六月一日発行)を見ると、峠は最低鞍部となっている。至極当然である。しかし実は前版までは、最低鞍部の東方、一四〇〇米圏の尾根上に峠が表示されていた。昭和四十八年の初版二万五千図以来の間違いである。
何故そのようなことが起きたのだろうか。まず大正元年測図の初版の五万分の一地形図を見ると、所ノ沢が雁掛峠に突き上げるようになっていて、地形自体が間違っている。金山からの峠道は金山沢右岸尾根を越えて一旦雁掛沢に下り、再び登り直して雁掛峠を越え、真っ直ぐ所ノ沢を下っている。地形も道も間違いだらけで、概念図の域を出ていないと言いたくなるほどだ。二万五千図が発行されたとき、埼玉側の道の間違い─金山沢右岸尾根を越してからわざわざ雁掛沢に下らず水平に峠に向かう部分─が修正され、また所ノ沢源流の地形間違い─雁掛峠でなく大ナゲシ近くの国境稜線に突き上げる─も訂正された。しかし上州側から沢沿いに登ってくるはずの峠道と、峠上で接続できなくなってしまった。
ここからは推測である。所ノ沢沿いに登ってきた雁掛峠北側の道を、何とか雁掛沢に入るよう歩道の破線を無理に曲げて引き、雁掛沢沿いの道に繋げると、その破線がたまたま1400M圏で国境稜線を通過したので、そこを雁掛峠とした、という仮説が考えられた。当時すでに道が消えていたので、何ら不都合は生じなかったし、わざわざ石祠の位置と食い違うことに関する苦情申立もなかったのであろう。単なる机上の空論との誹りがあるかも知れない。しかし実際現地を歩いてみればすぐに分かる。傾斜はどこが急でどこが緩いのか、どの窪が抉れていて危険であるのか、どこを辿ると迷い難く短距離で行けるのか、自ずと答えが見えてくる。最低按部から北西に出る微細な小尾根上地形に絡んで一一四五米付近の本谷に下るのが、地形的には一番妥当と思われた。一帯はシカの食害により裸地化し、その小尾根にも周辺の小尾根や小窪にも、峠道を示唆する踏跡や植生の痕跡は全く認められなかった。地形図破線の通りに所ノ沢沿いに道がついていた可能性についても、峠近くの急峻で崩れやすい沢の地形を見れば、わざわざ遠回りをしてでも沢に沿って行く必要がないことが分かり、間違いなく峠道は、あある地点で沢を見限り、最低按部へ真っ直ぐ向かっていたと推測される。
地形図破線が当てにならず、道型もないとなると、所ノ沢源流部の具体的な道筋はどのように求めればよいだろうか。群馬県の森林計画図[23]を見ると、峠道は所ノ沢を左右に渡り返したり悪場を巻いたりしながら沢に絡んでつけられているが、一一四〇米で本沢を離れて左岸支窪に入ると、峠までは窪に忠実に詰めあげている。実際の地形に照らすと、わざわざ急で危険なな窪を直登するのは甚だ不自然な経路である。測量年は非開示だが、図上で太尾林道が完成し大ナゲシ林道が未着手であることから、平成元年前後と推測され、諸文献から推測される当時の笹の繁茂から、その時点でのベストチョイスと思われる、ヤブを避け窪を直上するルートが採用されたのかも知れない。結局、峠道の位置については、真相はそれこそヤブの中である。
[1]原田洋一郎「近世期における鉱山開発と中津川村」(『歴史地理学調査報告』第五号、八三~九八頁)、平成三年。
[2]群馬県教育委員会編『群馬県多野郡上野村の民俗』、昭和三十六年、近藤義雄「上野村東部の民俗(二)」七二~八四頁。
[3]黒沢和義『写真と証言でよみがえる 秩父鉱山』同時代社、平成二十七年、二四八、二八ニ~二八三頁、三二〇頁付近。
[4]石渕保『上野村誌8 上野村の歴史』上野村、平成十七年、巻頭。元図は上州甘樂郡山中領四ヶ所御林繪圖(正徳~享保年間と推定)。
[5]陸地測量部『点の記』、「高租(タカソウ)測點」、明治三十六年。
[6]坂本朱「奥秩父西側尾根」(『山と渓谷』三四号、六八~七一頁)、昭和十年。
[7]原田洋一郎「江戸時代における秩父郡中津川村鉱山の地域的基盤」(『歴史地理学』一六八号、一~一六頁)、平成六年。
[8]原全教『多摩・秩父・大菩薩』朋文堂、昭和十六年、「野栗沢と峠」三一七~三一八、「新羽・勝山・檜峠」三一八~三一九頁。
[9]新井サト子『峠のむこうに…』(私家版)、平成十年、『写真と証言でよみがえる 秩父鉱山』(黒沢和義著、同時代社刊、平成二十七年)中、三一六~三三三頁の全文引用を参照。
[10]春日俊吉『奥秩父の山の旅』登山とスキー社、昭和十七年、「中津川渓谷・赤岩峠」二九〇~二九五頁。
[11]飯野頼治『山村と峠道』エンタプライズ、平成八年、「赤岩峠」九二~九六頁。
[12]明治大学体育会ワンダーフォーゲル部『西上州 関東の秘境』明治大学体育会ワンダーフォーゲル部、昭和三十七年、「八班」八一~八八、「十班」九七~一〇四、「12班」一一一~一一五頁。
[13]埼玉県土地対策課『埼玉全県航空写真(昭和五十年度)』、昭和五十年、C5-7。
[14]国土地理院『空中写真(八ヶ岳)CCB7610(1976/10/30)』、昭和五十一年、C19B-6。
[15]埼玉県土地対策課『埼玉全県航空写真(昭和五十五年度)』、昭和五十五年、C5-8。
[16]埼玉県地域政策課『埼玉全県航空写真(昭和六十年度)』、昭和六十年、C3-6。
[17]埼玉県土地政策課『埼玉全県航空写真(平成二年度)』、平成二年、C3-5。
[18]埼玉県土地政策課『埼玉全県航空写真(平成七年度)』、平成七年、C3-5。
[19]長沢和俊『山から降ってくる雪』(私家版)、平成ニ十三年、「雁掛峠~山吹谷の頭~所の沢峠」三一頁、「赤岩峠~雁掛峠」三ニ頁、「所の沢概説」三七~四〇頁、「所の沢登降記」四一~四七頁。
[20]黒沢和義『続 秩父鉱山』同時代社、平成二十九年、二八五~二八七頁。収録の鉱山地図は、雁掛トンネル(昭和三十六年開通)、雁掛堆積場(昭和三十六年以前に運用開始)が掲載されていること、昭和四十年代後半には閉山となったことから、昭和四十年前後のものと推定。
[21]埼玉県『森林基本図』K03、平成元年。
[22]谷田貝敦「秩父鉱山の概要」(『水晶』第二四巻、二~八頁)、平成二十五年。
[23]群馬県企画部情報政策課「森林計画図(上野村)」、『マッピング群馬』、平成二十七年。
[24]明治大学体育会ワンダーフォーゲル部「昭和38年度ワンデルング記録 1293~1430 昭和38年3月~昭和39年2月」(「ワンダーフォーゲル」一九号、一五三~一八二頁)、昭和三十九年。