根利山古道平滝道(砥沢~平滝) page 3 【廃径】

● 延間峠~中小屋

 
  

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延間峠から津室まで(等高線5M間隔で作製)

 
 
  

緑破線:平滝道、青点線:平滝道の消滅部、茶点線:営林署歩道

 
 
  

この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図25000及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 令元情使、 第199号)

 

 最初の下り出しはやや不明瞭だが、すぐ笹の中の細いながら明瞭な踏跡になった。やや曖昧ながら一米強の幅がある古道の道型は、今も踏跡としてしっかり踏まれていた。すぐに左から車道終点から来た水平踏跡を合わせ、踏跡はより安定したものになった。現在の主な通行者は、延間峠を越えてきた登山者ではなく、車道終点から水平道を通って来た営林関係者や釣客であることが示唆された。一五〇〇米付近を行く自然林の平坦な良道には、倒木の手入れ跡が見られ歩きやすかった。続いてカラマツ植林の一帯を通過した。  突然、道はトラバースを止め、短区間だけ顕著な小尾根を下った。これが小田倉沢へと下り始める合図だった。尾根筋の下降は瞬時に終わり、山腹を斜めに下り始めた。次第に倒木が増えたが、さほどの障害にはならなかった。緩く下るうち、いつしか小田倉沢に出合った。二股の下、左岸に炭焼窯跡がある一四一二米辺りを容易に渡渉した。沢沿いの右岸が、長さ百米ほどに渡り段々畑のような敷地になっていた。中小屋である。敷地の段の部分に石垣の残骸を見る程度で、生活の痕は何一つ残っていなかった。

 

⌚ฺ  延間峠-(25分)-中小屋 [2019.5.18]

● 中小屋~中小屋峠

 沢から一段上がった台地状は、不規則に配置された二次林に、倒木が折り重なって蔓草が茂り、酷く荒廃していた。地形的に見ると、ここが中小屋の圃場[3]だった場所であろうか。空中写真では、昭和二十二年には広葉樹林であったが[10]、同三十八年には真新しい伐採跡になっていた[11]。事業図[12]によれば三十一年の植栽であるから、三十年頃の伐採であろう。その後植林されたカラマツは根付きの悪い樹種であるため、風害等で倒れたのかも知れない。増田氏が通行した平成十七年には、すでにこの区間で「道型を確認できなかった」という。
 障害物の間隙を縫う様に様々な踏跡が自在に付いていて、誰かが取り付けたピンクテープも、旧道に関係なく、ただ方向を示すために付けられたように見えた。平坦な台地の中程で、一度道型的なものを感じたが、すぐヤブに埋もれ連続しなかったため、道型と確信できなかった。台地の奥まった辺りから峠への登りが始まった。この斜面も同様に荒廃し、道型どころか踏跡すら不明瞭で、適当に歩かざるを得なかった。峠直前で見た古道らしき痕跡も、伐採作業道の可能性を捨てられなかった。この区間は、地形を読んで歩けば容易だが、歩道は斜面の荒廃によりほぼ消滅しており、連続する明らかな道型や踏跡を見つけることは出来なかった。
 中小屋峠は、伐採と植林失敗による荒廃のおかげで見通しがよく、峠に立つと白根山と錫ヶ岳が初めて顔を覗かせた。

 

⌚ฺ  中小屋-(15分)-中小屋峠 [2019.5.18]

● 中小屋峠~津室

 目の醒めるような新緑に覆われた津室沢源頭をめがけ、ミズナラの二次林を斜めに下った。大昔の伐採跡は、自然を感じられる状態にまで回復していた。落葉に埋もれた道型は、流出土砂で埋まってはいるが十分判別でき、快適に歩ける踏跡だった。標高で一〇〇米も下ると、三、四十年生に見える立派なヒノキ植林が谷側に現れた。これでほぼ百年生というから[12]、なかなかの成績不良である。
 直線的な歩道がちょうど植林界を成していた。一三四〇米から下は全て植林地になっており、尾根的に膨らんだ急斜面を電光型に下った。作業道が入り混じり、歩道との区別が難しかった。次第に両側が津室沢とその支沢に挟まれ、狭くなってきた。左に見える支沢は酷くガレていた。眼下に三十米四方ほどの平地を見ると、道が崖上で途切れた。直下にある津室原動所へ下る部分が崩れているためだったが、痕跡を使って容易に下降した。
 この山腹の台地に残る一辺二・五米、高さ二米ほどのレンガの古い建造物が、索道平河線の原動所である。動力は、薪を燃料とした蒸気機関だったという。他にも、山積みの古いレンガや、ボルトが突き出たレンガ造りの槽的なもの、陶製の瓶が残され、石垣が敷地の回りを囲んでいた。アルミ鍋や青・黄のビニールシートは、造林時のものであろう。立派な植林を含め昭和後期の遺物が多く、はるか明治時代の息吹を感じさせる雰囲気とは言い難かった。

 

⌚ฺ  中小屋峠-(15分)-津室 [2019.5.18]

● 津室~丸山峠

 
  

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津室から丸山峠まで(等高線5M間隔で作製)

 
 
  

緑破線:平滝道、青破線:荒廃部分、青点線:消滅部分

 
 
  

この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図25000及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 令元情使、 第199号)

 

 倒木とヤブに埋もれかけた歩道が、原動所前方の台地の先端から、石で囲った槽状の脇を通過し、小刻みな電光型で下っていた。津室沢の本沢・支沢に挟まれた狭い中間尾根上に、段々になった敷地が並ぶ町の遺構の左側(支沢側)を下った。津室沢付近の踏跡が斜面の崩土で完全に消滅しているため、経路は地形と現在残る微かな踏跡から推定するしかなかった。恐らく町内一の立派な石垣を持つ敷地の下を横切って津室沢を渡り、右岸を進み、付図にM窪、L窪、K窪と示したやや抉れた三本の小流を渡る、ほぼ消えたに等しい痕跡を辿るのが正道であろう(通例に倣い、下流側から沢・窪名をアルファベット順に仮称した)。ごく緩く下る歩道は、急激に下る津室沢を離れ、すぐ高みをトラバースするようになった。確かな道型はなく、誰かが歩いた跡のような幾つかの並走する痕跡を追って百余米も進むと、急斜面に細いが明らかな踏跡が見え始め、時折マーキングのテープが見られた。
 鮮やかな自然林のJ沢を渡ると、ブナの美しい尾根で道幅が広がり一米強になった。恐らくこれが本来の道幅であろう。見事な二段八米滝をやや奥に従えたI沢では、谷が深く抉れて道が完全に消えていた。左岸はZ字型の踏跡で何とか沢に降り、右岸の土壁をテープ目掛けて登った。これ以後、歩道は小さな上下はあっても、トータルでは丸山峠まで水平を保ったままだった。緩く登り返して右岸尾根に達すると、尾根はI沢に激しく侵食され、幅数十センチのヤセ尾根になっていた。注意深く通過し、すぐ右に折り返すと、何事もなかったかのように山腹のトラバースが続いた。この尾根はカラマツ植林になっていて、そのトラバース部分で明瞭な作業踏跡を左後方に分けたが、ちょうどその付近が崩壊していて気づき難いように見えた。
 広く開けた穏やかなH沢を横断するところで、また道が完全に消滅した。しかし右岸の自然林を水平に行くうち、道型の大部分が土砂に埋まるも僅かに残った細い踏跡が回復した。踏跡は不安定で、土砂流出が強い場所で完全に消滅した。この辺りの地質は皇海山の溶岩であるため、地面はしばしば灰色の火山灰であった。火山性土壌の溝状に抉れた、涸れたG窪を渡り、窪の底で折り返すように僅かに登って狭い尾根を越すと、すぐ向こうがF沢という面白い地形があった。次の尾根までの山腹は、土砂流失と倒木で道型が失われていた。微かな痕跡を追って登りながら尾根を越すと、ピンクテープに導かれた折返して急激に下る小さな踏跡があった。この歩道は全ての尾根を気長に回りながら急な上下なしに作られているが、この尾根だけは二〇米以上を登って下る特異な踏まれ方で、明らかに不自然だった。恐らく本来の道が完全に埋まってしまったため、新しく付けられた踏跡であろう。試しに本来の道と推定される、緩く下る経路を取って山腹を歩いてみたところ、歩くのに不自由はないものの道型や踏跡は全く見られず、跡形もなく消えていた。E沢近くの倒木の地点で、尾根を乗越してきた踏跡と合流し、唐突にそこから水平踏跡に戻っていた。この状況から、水平に尾根を回る本来の道が消失し、新たな踏跡に置き換わったものと推測された。
 二股の直上で微流のE沢を渡る辺りは、蔓草、倒木、崩れのため、道は辛うじて見える程度だったが、沢の右岸からカラマツ植林になり、微かな道型が回復した。次の美しい渓畔林を伴ったD沢は、両岸が削れて崖状のため注意深く通過した。自然林を行く立派な道となり、次の尾根を素晴らしく道型が残った箇所で回り込んだ。続くC沢も切れ込んでいるので、電光型に下っては登り返して渡った。丸山峠が近づくと、道の状態は次第に落ち着いてきた。沢の部分だけ両岸が激しく崩れ、道が完全に消えた微流のB沢を渡った。小さな涸窪のA窪を渡ると、すぐ丸山峠であった。かつて索道を通していた名残で、この道のどの峠も明るいが、この峠も広葉樹の二次林が気持ち良い明るく開けた峠であった。

 

⌚ฺ  津室-(55分)-丸山峠 [2019.5.18]

● 丸山峠~平滝

 
  

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津室から丸山峠まで(等高線5M間隔で作製)

 
 
  

青破線:平滝道荒廃部分、青点線:消滅部分、緑実線:作業道(明瞭)

 
 
  

この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図25000及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 令元情使、 第199号)

 

 倒木の多い涸れた後津室沢源頭の左岸に、傾斜が緩く分かり難いが微かな道型が続いていた。この付近は昭和二十九年の植栽であるから伐採から七十年近くが経過しており、道も不明瞭な訳である。この歩道は概して平滝からだと俯瞰の効かない登りが多くルートファインディングが難しく、それはこの区間も同じである。索道を通すための峠付近の伐採跡の二次林で、貧相な森に明滅する痕跡の判別に神経を使った。一一五〇米付近から沢が急になり、天然の自然林になると道が見え始め、二股を右に見ると、折り返しを交えて後津室沢へと下った。最近の資料では後津室沢は裏津室沢と表記されているが、根拠は不確かである。古くは後津室沢であったし[6]、今も営林署の計画図では「后津室沢」とされている。
 沢に近づいた地点で、道の折返し箇所が崩壊に呑まれていたが、容易に捲いた。その直後、左岸に小窪が入る礫が積もった辺りは不明瞭で、逆方向では迷いやすかった。しばらく後津室沢の左岸を行く道は、流れに削られズタズタに寸断されていたが、どこも捲きは容易で、全体的に歩きやすく足が捗った。一〇四〇米付近の沢の屈曲点で、道は右岸に渡っていた。左岸が激しく抉れ、右岸は土砂で埋まっており、渡沢部の道型は完全に消失していたため、厳密な位置は確定できなかった。右岸に明滅する複数の微かな踏跡を探すも、渓畔林の斜面は土砂流出でほぼ真っ平らで、道というよりたまたま誰かが通行した足跡にしか見えなかった。下流に進むに連れ礫混じりの硬い下層土が露出し、安全なトラバースすら覚束なくなってきた。上下を捜索するも道はなかったことから、右上の崖と左下の渓に挟まれたこの斜面を歩道が通っていたことは疑う余地がなく、土砂流出により消滅したものと見られた。旧道を正確に追う目的の山行でなければ、沢を遡行した方がよほど安全確実である。平成十七年の増田氏の記録では、渡沢部下の不明瞭な箇所を過ぎれば平滝まで歩けるとのことなので[1]、当時より荒廃が進んでいるように思えた。
 後津室沢の九八八米の右曲地点は、右岸尾根の支稜が沢に落ち込む難所であった。支稜付近は露岩混じりの急傾斜で、手前(上流側)が下層土が露出した崩壊地、向こう(下流側)が崩壊混じりのシャクナゲヤブになっていた。幾つもの断続的な踏跡が尾根を回って平滝へと向かっていたが、どれも不安定で、ともすると崩壊で寸断されていた。道の痕跡や付き方からして正道らしいルートは、特に支稜下流側の崩壊が酷く通行困難だったので、十数米上から安全に高捲く踏跡で通過した。後津室沢出合に落ちる右岸尾根の主稜まで捲き切ると、そこには平滝から南登する電光型の良い道が登ってきていた(一〇一五米)。錆びた古釘とワッシャが落ちていたことから、昭和三十年前後の伐採当時の作業道か何かであろう。何を意味するのか、その道沿いに新しいピンクテープが点々と取り付けられていた。一瞬このしっかりした道が古道と思ったが、崩壊を高捲いて本来の道より高い位置に来ているので古道のはずはなかった。調べてみるとその良道は尾根に取り付く単なる作業道であった。その作業道を下りてみると、電光型に下って一〇〇〇米の支稜上で古道に出合った。古道の逆走を試みると、十数米先の崩壊で足止めされた。やはり本来の道は、もはや通行不能ということだ。その直前、幅十数米の広場があった。当初大崖平にあった火葬場を、昭和二年に移転した場所と思われる[3-5]。火葬台と三界萬霊碑があったというが、広場の片隅の約一米の方形の石積みの上に置かれた大石がそれなのだろうか。古道は広場の下を沿う様に通過しており、そこで尾根から来る先の作業道と明確に合流していた。
 火葬場の直下で、道は尾根を乗越し泙川左岸に回り込んだ。急な山腹をトラバースして下ると、すぐ大きめの崩壊に突き当たり、上のシャクナゲヤブから何とか捲いた。続く小崩壊を過ぎると、急傾斜に着いたあるかなしかの落葉の踏跡となり、斜めに下るうち道型らしきは消え、痕跡が行き交うようになった。断続的な径の欠片を探しながら繋いでいると、平滝の堰堤の直上で斜め下りを止め、堰堤目掛けて電光型に下る微かな経路が浮かび上がった。根利山会刊行「根利の歴象」から引用した高桑図[4]の雰囲気とも一致するこの道が、歩道の残骸と推測された。高桑図の通り、堰堤前の泙川左岸で分岐する、山神社に至る良道が保たれていた。百米弱の寄り道をしてみると、後津室沢出合の森の中にひっそりと山神社があった。船型の石、灯籠、そして後津室沢を流した伐木の引き上げ場所であるのか、小さな切通を挟んで山神社の御本尊が、腐った木の階段上の小高い場所に安置されていた。昭和五十八年の補修[5]から三十数年を経て、階段は足を置くと崩れそうな状態だった。石灯籠は右側が倒れていた。なお現時点では、本来の歩道より、火葬場から平滝の山神社へ直行する、後津室沢右岸尾根を忠実に辿る踏跡の方が、明瞭になっていた。
 堰堤前に戻り、泙川を渡った。堰堤は人が渡れるよう、狭い部分に水流を集め、そこを飛び越せば渡渉しなくて済む様にうまく作られていた。右岸の台地状に上がるとすぐ平滝小屋があった。沼田営林署の避難小屋だが、施錠はされておらず、一通りの設備が揃い畳も敷かれ、数名が泊まれそうだった。近くには昭和五十年に根利山会が設置したステンレス製の記念碑[5]、敷地の上流側には、昭和四十年三月に閉校した平滝分校跡の石碑と、平成十九年以前に建てられたフェンスに囲まれた新しい新しい雨量観測所があった。泙川右岸の百米以上続く長細い平滝の跡地には、多少の廃棄物の破片がある程度で、他に目ぼしいものは何も残っていなかった。奈良から来る車道は、落石で通行不能のまま放置されていた。

 

⌚ฺ  丸山峠-(45分)-平滝 [2019.5.18]

【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)

  • 延間峠北の営林署作業道合流点(根利平川(延間)林道終点から来るもの)

 

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延間峠を振り返る
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倒木に刻んだステップに手入れを見る
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道型がよく認識できる良道
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小田倉沢が左下に近づいてきた
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中小屋集落はただ敷地だけが残る
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倒木と蔓草が蔓延する中小屋峠の登り
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道が消えた峠直下を適当に登る
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中小屋峠の乗越
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鮮やかな自然林の良道を津室へ下る
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ヒノキ植林になると津室も近い
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津室に残る索道平河線の原動所
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煉瓦に打ったボルトは索道の基礎か?
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かつての人の生活を物語る割れた瓶
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尾根上に石垣の敷地が連なる津室の廃墟
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か細い津室沢源流を渡る
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津室沢右岸では微かな痕跡程度
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K窪を過ぎると次第に道型が見えてくる
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奥に8M2段滝を従えたI沢
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抉れたI沢の右岸に這い上がる
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崩壊が進むI沢右岸の山腹
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幅数十センチまで削られた右岸尾根
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下層土が露出した危険なトラバース
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F沢・E沢中間尾根で道が消える
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カラマツ植林で道が回復
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丸山峠近くの自然林で良道になる
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樹間に顔を覗かす丸山の特徴的な山貌
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A窪で道が消えるもこの位なら容易
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明るく開けた丸山峠の切通し
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乱伐された峠付近で不明瞭な道
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自然林に入ると比較的分かりやすい
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後津室沢の渡沢部から右岸で道が消滅
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見事に捌けた山腹のあるかなしかの痕跡
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露岩混じりのトラバースは要注意
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崩壊部をシャクナゲヤブから高捲く
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高捲いて作業道の折り返し部に合流
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作業道は火葬場があった広場に出る
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火葬台だろうか
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平滝道と火葬場広場の分岐
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平滝道を逆走するもすぐ崩壊
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堰堤を眼下に朧気な電光型で下る
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山神社に寄ると石灯籠と石船があった
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踏み抜きそうな階段上の山神社
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人が渡れるように作られた堰堤
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大きな平地にポツンと建つ平滝小屋
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三陸木材時代の分校跡
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雨量観測所が唯一の近代設備
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平河線の終点駅らしき石垣
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車が通行不能となった荒廃した林道

[10]米軍『空中写真(男体山)USA-M631-A-No2(1947/11/06)』、昭和二十二年、249。
[11]国土地理院『空中写真(日光)KT632YZ(1963/11/04)』、昭和三十八年、C1-46。
[12]前橋営林局沼田営林署『奥利根地域施行計画区 沼田事業図 第4次計画』、昭和五十五年度、追貝(A)(全14片中第6片)。