大菩薩環状林道 page 2 【廃径】

 東京都水源林の大菩薩環状林道は、牛ノ寝通り~丹波大菩薩道(荷渡場)と、大菩薩嶺北面山腹(一九五〇米付近)~丸川峠の区間が今でも使われているが、大菩薩嶺の北西を回る中間部が昭和初期以来の廃道になっている。実際歩いてみると、他の八十年近く放置された林道同様、大部分が道型が不明になり、所々に道の断片が顔を覗かす、追跡が極めて困難な経路になっていた。大菩薩嶺北西面は、崩壊が発生していることが現地の状況から伺われ、多くの部分が流失したもの見られる。追跡の困難さを増したのが、異常なまでの分岐踏跡や代替踏跡の多さである。幾多の崩壊で失われた部分を回避する踏跡が、都度付け直されたためと推測される。
 それでも原生林の美しさは奥秩父に全く引けを取らず、その聖域を横断する林道の道筋は印象深いものであった。
 今まで数多くの秩父の古林道を歩いてきたが、これほど手古摺ったのは初めてだった。荷渡場~丸川峠道の区間を、一部歩いた回を含め四回歩き、しかもはっきりしない区間は往復してみるなど、斜面を隈なく歩いてもそれだけ掛かった。穴埋めのように、道が通っていたに違いない場所、恐らく通っていなかった場所を特定し、包囲網(可能性ある範囲)を徐々に狭め、四回目訪問時の捜索のための往復行程で、ようやく確信が持てる道筋を決定した。

 

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環状林道(赤線)周辺の登山道(黒太線)と踏跡(黒破線・点線)
様々な高度で並走する幾つもの踏跡が認められた

 これだけ経路の特定が困難だった原因は、ほぼ長年使われていなかったことに尽きよう。古林道が敷かれた山域の多くは昭和二、三十年代に伐採が行われ、その時期に一度道が再整備されている。しかし一度も伐採を受けていない小室川源流地域を通るこの道は、昭和初期に廃道となって以来、全く人手が入っていない。大菩薩嶺を通る尾根道ができたため廃道となったというが、なぜ尾根道を作ったかは明らかでない。ただ環状林道が桟道を渡しながらの険路であったこと、実際歩いてみてかなりの崩壊や倒木が見られたことから、険しい地形のため道の維持が難しくなったためと見るのが妥当であろう。
 同じ斜面に様々な幾つかの弱い踏跡が見られた。これらは本来の林道のルートから多少離れて、並行して付けられていた。環状林道はかなりしっかり作られていたと見られ、道型が残った部分は、今でも歩けるかと思うほどだった。しかし一度岩稜帯の桟橋が落ちたり、大きな崩壊や土石流があった部分は、多少の巻きではかわせぬほどの被害であった。猟師や森林調査など、何らかの理由で稀に環状林道を利用したい者が居たとしても、環状林道の崩壊部を捲くのではなく、新たに踏跡を付ける必要があったほどの、酷い荒廃だったのである。
 現在この地域を通行するなら、新たにできた踏跡を辿れば、不明瞭なことはこの上ないが時間的には圧倒的に早い。当時もやろうと思えば、散在する岩稜や露岩をその都度上下に避け、安定な場所に道を作れたはずである。しかし環状林道は、桟橋を多用しながら見事なまでに平坦な道として拓かれていたと見られる。すなわち荷渡し場から蛇抜沢・金場沢中間尾根までは一定の斜度で緩く登り、そこから一ノタルまではほぼ水平、そして丸川峠に向け緩く下っているのである。歩きやすい道を作設しようとのこだわりが、桟橋が消えた現在、全くの廃道となる誘引になったのは皮肉なことである。
 これだけ痕跡が少ない古林道なので、道の位置をどのようして推定したか疑問に持たれる方がいらっしゃるかも知れない。以下に示す全ての理由に合致するものとして、唯一の推定経路を導出した。

  1. 旧五万図[16]に示された道の付き方の概要(ただし旧図の地形誤りのため正確には分からない)
  2. 環状林道が通過する北尾根一ノタルの位置を、諸文献と現地状況から推定
  3. 道型が連続して残る部分から、道の付き方の癖(傾斜や道幅など)を推定
  4. 東京都水源林道一般の特徴として、山巓部分では尾根筋を辿らず水平か緩傾斜で通過
  5. 文献情報から、「大菩薩嶺を巻く部分(註:蛇抜沢・金場沢中間尾根~一ノタル)は、殆ど高低がない」、「桟道や木梯子が随所にある」
  6. 尾根を回る部分や岩の下など、上からの崩落がなくスポット的に道型が残る地点を通過点として認識(いわば赤テープ的な役割)
  7. 山腹を隈なく歩いて、他に古林道らしい痕跡がないことを確認
  8. 推定経路のGPS位置が、基盤地図情報(標高5mメッシュ、等高線間隔1m)[17]の等高線形状と一致

●荷渡場~金場(コンバ)沢・蛇抜沢中間尾根

 小菅川の源頭から来る現役の環状林道を「ニワタシバ」の道標で合わせる地点に、家の柱のような立派な古角柱が立っている。峠道を大菩薩峠方向へ水平距離にして七、八十米行くと同じ各柱があり、さほど明瞭な分岐はではないが、戻るように登る小さな踏跡があった。これが廃道化した環状林道の現在の姿であった。踏跡程度の歩きやすい道はすぐに怪しくなったが、補強の石垣を通過したことで旧林道であることが確認された。山腹を斜めに登るますます薄い踏跡は、それと知らければ使えないほど頼りないものになった。
 ほどなく、旧峠越えの明治時代の峠道に出合った。意外と立派な道のすぐ右方に、旧荷渡場の石組が見えた。ここで上段林道は旧峠道を旧峠方向に折り返す様に約五十米進み、再度折り返して山腹に取り付いていた。分岐点から約十米は全く消滅していて、その先の笹の中に突然明瞭な道型が出現していた。分岐部分が消滅した理由は不明だが、人工的に造成された不安定な旧峠道の法面に開いた部分だけが、経年で崩れたためと考えるしかない。この様に、峠道を使ってわずかに高度を稼ぎ、折り返して山腹に取り付くZ字型の交差方式は、新荷渡場と全く同じである。そして小室川・小菅川分水尾根を、明瞭な道型のまま一八二〇米で回り込んでいた。
 ところで環状林道が旧峠道に出てから小室川・小菅川分水尾根一八二〇米に達するまでの間、もう一つの経路がある。旧峠道を交差して横切り、せわしない電光型でわずかに登って小室川・小菅川分水尾根の一八〇五米圏に達し、尾根上を直登して一八二〇米に達する踏跡である。さらに尾根に上がった一八〇五米圏から小室川側に斜めに山腹を絡んで少し先で環状林道に出る踏跡もある。当初はこれらが正道と思い、一八二〇米で尾根を回る道を認識していたが報告していなかった。今回改めて両経路を歩き比べてみると、道の作りからして明らかに一八二〇米の方が林道らしいと考え直し、訂正した次第である。旧荷渡場付近の複雑な道の接続については、「大菩薩峠旧道」で詳しく図解したので参照されたい。
 歩き出しは一般登山道のようなきれいな道だったが、たちまち踏跡程度になった。それでも暗いツガの原生林に付いた道は、八十年前のものとは思えぬほどしっかりしていた。しかし部分的に荒れた部分も散見され、場所によっては不明瞭であったり、また踏跡が複数に分かれたりすることもあった。そのような分岐では、ほぼ全て上へ行く方が正しかった。環状林道は水平ではなく、ごく緩く登っているからである。百数十米先にまた、一時的ではあるが一般登山道並みの完全な道型が現れた。その先の小窪の崩壊箇所では道が完全に消えており、こう激しく道が明滅するのは、数十年以上経過した古道の特徴でもある。この崩壊箇所に弱い巻の踏跡があったのは、小室川の遡行者が付けたものであろうか。
 雨上がりのためか、金場沢源頭の小さな流れの音が微かに聞こえていた。まさに秩父のような美しい原生林を、踏跡はごく緩く登り続けていた。所々小窪の崩壊で道が消えたり、不明瞭になったり、枝分かれを起こすのは、相変わらずだった。金場沢源頭部の右岸に差し掛かる頃、非常に古い崩壊した一帯を通過した。もう斜面は全く安定しているが、敷き詰められた苔むした崩礫のため、踏跡があるかなしかの痕跡程度になった。これまでの道の付き方から推測して二~三分検討をつけて進むと、幸い踏跡が復活した。多少落ち着きを取り戻した踏跡は、ちょうど金場沢の源頭を通る辺りで、小室川・小菅川分水尾根以来初めての笹原に入った。丸みのある緩い谷で、水は全く無かった。笹が低かったので、生え方の違いで道型を判断することができた。
 そこまでと違って、この先もはや踏跡すら見られなくなり、かつて道があったとは信じられぬほどになった。と言うのも、切れ目のない黒木の森が終わり、しばらく笹と倒木で荒廃した一帯を通るからであった。
 一つの小尾根を回った。微かな痕跡をたどって水平や緩登を続けるが、道筋に自信を持てなかった。痕跡は枝分かれしながら濃淡を繰り返したり、所によってはほぼ判別不能になった。付近の斜面は既に何度も歩いているので、目前の痕跡が相対的に明確なものかの判断を付けられたが、初めて歩くのではこれを頼るか否かの判断がつかないだろう。また事前に基盤地図情報で詳細地形図を作成し、正確と思われる推定経路を図上に描いて置くことも重要だ。頼りない正道と多くのニセ踏跡とが入り乱れるこの一帯の通過は、極めて難しかった。ここで正道と判断した根拠は、その踏跡が道の付き方からして妥当である(前後の明瞭な部分と比べて同じ特徴がある)こと、数百メートル以上連続していること、時々明らかに古林道らしい道型が現れること、近辺の他の踏跡と比べ遜色ない程度に判別できること、などである。
 森林と笹原が交互に現れ、踏跡は無数の分岐を反復した。地形的に見て、林道は金場沢・蛇抜沢中間尾根の一九四〇米の顕著な緩斜面を通過する可能性が高いと予想していたが、案の定、痕跡をたどって中間尾根に差し掛かった時、大岩の下に位置するまさにその緩斜面を通過した。この中間尾根を約三〇米、数分登れば一般登山道に出られる。

 

⌚ฺ  荷渡場-(5分)-旧峠道交差-(20分)-金場沢源頭の笹原-(10分)-金場沢・蛇抜沢中間尾根 [2018.9.23]

●金場(コンバ)沢・蛇抜沢中間尾根~一ノタル

 中間尾根を過ぎると、緩登を続けていた道が一転して水平になった。倒木の多い荒れた薄い踏跡が続いた。百米も行くと多少森が落ち着いて、古林道らしくなった。場所によっては、一般登山道に近いと思うほどきれい所もあった。中間尾根から百五十米ほど進んだ、基盤地図情報(1m等高線)の等高線が混んだ辺りで、露岩が目立つようになった。かつてあった桟橋が落ちたと思わせる箇所が頻繁に現れた。地形図では大菩薩嶺の南面にだけ岩記号があるが、東面の深い森の中にも沢山の露岩が隠れていた。岩の下をへつるように通過したり、桟橋が落ちたらしい岩場を通過した。道型は分かるが傷みが激しかった。桟橋落下で時に途切れる露岩を縫う道型は、向こう側に回復する道型で経路が判断できた。幅広く水平な道型を辿るのは、荒れ酷いとはいえ廃道としては歩きやすかった。
 さらに百米ほど進んだ、基盤地図情報で次に等高線が混んだ一帯に差し掛かった。二万五千図で言えば、二〇三〇コンターが一般登山道のある尾根を横切る地点の東~東北東を通過する辺りである。激しい崩落のため巨岩や倒木が山腹を埋め、道型はおろか踏跡や痕跡すら見られなかった。とにかく水平を保ってデタラメに前進すると、絶壁の上を通過する地点で道型が回復した。しかし道が見えたのもつかの間で、この先、ガレと幼樹繁茂ヤブに苦しむ一帯に突入する。一ノタルまで林道の傷みが酷く、そもそも経路の特定が難しい区間である。ここから捲きの踏跡(かなり分かり辛いもの)が一帯を高巻いていたが、林道の微かな痕跡はあくまでも水平に続いていた。
 全般に道が酷く荒れもしくは崩れて、道のあるなしも不確かな状態になった。水平を保つことのみ気をつけて、適当に進んだ。ガレ小窪を一つ通過した。数分後に次の抉れたガレ窪を渡りやすい場所まで高巻いて渡った。その左岸は、それまでの黒木の森と明らかに異質の、下層にササが優占する明るい森だった。古い崩壊後の回復植生であろう。航空写真で見ると、昭和二十三年[18]にはなかった崩壊が、四十七年[19]にはこの窪で発生しているので、数十年前に生じた崩壊かも知れない。高巻いた分下り返すと、まだ森林にまで回復していない笹原と幼樹の蔓延る一帯で、道型は見えないものの薄く踏まれていた。
 二分進んだ辺りで、地形図に載らない顕著な小尾根を回った。谷側は立派なツガの森なのだが、風倒木のためか多少日が射す部分があり結構明るかった。山側は再生中のヤブ状の幼樹帯になっていた。スッキリしたきれいな森なのに道型や踏跡が見られなかった。歩き回った後に分かったことだが、正道は幼樹帯の中に消えてしまっていたようだった。この小尾根の幼樹帯に埋もれてちょっとした岩があり、その向こう側は小さく崩れていた。幼樹帯を潜り、岩の向こうに回り込むと、再び微かな痕跡が現れた。しかし一ノタルまで、露岩と倒木の多い荒れ気味の斜面が続くので、明らかな道型は現れず、ただ僅かな水平痕跡と、散在する小岩稜の上か下かを抜けるルートを見つけることで、道筋を推定した。地形に大きな特徴なく、断続的な気配程度の道の痕跡を求めて進むのだが、一ノタルまでの数百米の間に僅か十数米の登りになる分、そのほんの少しの勾配分だけ見通しが悪く、逆方向に比べて儚い痕跡を見失いやすかった。というのも、一ノタルまでの区間を往復してみたが、行きは何度か道を外したが、戻りは大して迷うことなくルートを見つけられたからである。時々現れる幾つかの大きな露岩は上を通過し、最後の大岩の上を過ぎてから二、三分、僅かに下り気味に進み、一ノタル(一九八三米)の見慣れた標柱の脇に飛び出した。
 なお一ノタルから南にやや下り気味に山腹をトラバースする踏跡が見られる。多少歩きやすい踏跡ではあるが、岩塊を避けるように一度下ってまた登り返す道の付き方は、古林道としては不自然である。林道の廃道後にできた代替踏跡なのかも知れない。

 

⌚ฺ  金場沢・蛇抜沢中間尾根-(55分)-一ノタル [2018.11.24]

●一ノタル~丸川峠からの一般登山道

 ここで、この度の捜索により推定された、一ノタルの正確な位置について述べておきたい。今回改めて北尾根を、一ノタルの推定地点の少し下から注意深く登ってみた。尾根上に三、四個の大きめの露岩が続いて現われ、その最後の露岩を越すと、尾根は数米下って僅かにたわんで一九八〇米圏の小鞍部を形成し、そこで連続露岩帯が終わっていた。そのたわみに、荷渡場で見たのと同じ仕様の一本の倒れた太い角柱があった。数米先には立ったままの細い角柱があり、かつて文字が書いてあったか分からないが古くて全く読めなかった。この先、尾根は落ち着いて緩く登り、六分登った二〇二〇米付近で北尾根に乗ってきた丸川峠からの登山道に合流、さらに四分の登りで二〇五六米の山頂に着いた。この状況は、土方が記した一ノタル付近の様子と完全に一致しており、また昭和三十一年に北尾根を登ってきた大矢直司も、「岩角に立上ったその前に一のタルを見出した。」[14]と同様のことを述べている。さらに小鞍部の倒れた標柱近くから、丸川峠の方向に大菩薩嶺を巻く踏跡があることからしても、間違いなくそこが一ノタルと思われた。かつての標柱は白標で、「字小室川東京市有林」の文字が刻まれていたという[15]。
 一ノタルから水平に西進する踏跡は、僅か十数米行くと幼木ヤブで不明になった。気配と勘で低いヤブを分けて進むと、古いガレに突き当たった。今や礫が安定して危険は感じはなく、景色が良いのでガレの中ほどで休憩した。金峰・国師・甲武信・飛龍・雲取へと、樹林に覆われた山頂では得られぬ、素晴らしい展望を楽しんだ。ガレ対岸の道らしい雰囲気に取り付くも、一分で次のガレに突き当たった。露岩が出ているうえ、多少の残雪があったので、注意して下り気味に渡ると、ヤブの中にうまく正道が見つかった。多少良くなった道をあと数十米進むと、丸川峠へ下る一般登山道がちょうどV字型に折り返す一九五〇米付近の地点で、それに合流した。この折返しは、従来まっすぐ一ノタルへ向かっていた一般登山道を、恐らく昭和三十四年の台風で発生した大菩薩嶺北面の崩壊を避けるため、道を付け直したために発生したものと思われる。

 

⌚ฺ  一ノタル-(10分)-丸川峠からの一般登山道 [2018.4.21]

【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)

  • 旧峠道の旧荷渡場付近
  • 金場沢・蛇抜沢中間尾根の踏跡
  • 大菩薩北尾根の踏跡

 

[16]陸地測量部『五万分一地形図 丹波』(昭和四年測量)、昭和七年。
[17]基盤地図情報 数値標高モデル 5mメッシュ(標高)、平成二十九年ダウンロード。
[18]建設省地理調査所『米軍撮影空中写真(1948/09/27)』、昭和二十三年、M1168-160。
[19]国土地理院『空中写真(丹波)MCB724X(1972/05/17)』、昭和四十七年、C4-28。

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荷渡場で小菅川への環状林道が分かれる
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すぐ上の角柱が北尾根への環状林道分岐
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補強の石垣で古い道と知れる
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明治期の旧峠道と旧荷渡場上でZ字に交差
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尾根を越えて小室川流域に入る
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すぐ針葉樹の森になり踏跡は概して安定
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暫くは歩きやすく良い道が続く
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しかし小さな窪ごとに踏跡が消える
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苔むした木漏れ陽のシラビソとツガの森
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倒木が被った箇所はほぼ不明に
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笹原で踏跡が消える
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痕跡を探しながら荒れた一帯を通過
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道型は十分に見て取れる
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蛇抜沢・金場沢中間尾根を肩状で回る
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倒木や苔が被っても明らかに歩きやすい
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一般道に近い綺麗な箇所も
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次第に目立ってくる露岩を縫って
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激しい崩壊で完全に消滅した部分
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道の微かな痕跡を感じながら行く
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岩壁を行く道
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道が消えたササと倒木の荒地を通る
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明るい顕著なツガの小尾根を回る</
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幼樹ヤブと崩壊の道なき箇所を越える
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北尾根の山腹に入ると荒れて道型も薄い
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一ノタル直前もほとんど消えている
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一ノタルへ登る別の踏跡は代替路か
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荷渡場と同型の一ノタルの折れた古角柱
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近くに傾いて立ったままの細い標柱
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一ノタルからは薄い道の痕跡が続く
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ガレ通過時に唯一得られる素晴らしい展望
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斜めに下りながら渡る部分はほぼ消滅
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最後に多少道らしい雰囲気が回復
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環状林道は曲がり角で一般登山道に吸収