西沢金山・奥鬼怒道(湯元~西沢金山~噴泉塔~手白沢) page 4 【廃径】
● 西沢金山~高薙山北面の湯沢への下降開始点
西沢左岸を川俣方面に行くと、荒沢左岸尾根に噴泉塔道の取付がある。西沢を渡る西沢橋から車道を川俣方向に約三百五十米進んだ、右路肩が駐車可能で左の法面のブロックが途切れた地点が、現在の取付になる。曖昧な踏跡で、ガレた窪状から左手の小尾根に取り付いた。標高一四五〇米付近で操業当時の幅広く水平な作業道が横切った。踏跡は再び小尾根右の窪状を登り、再度小尾根に戻るとコンクリで固めた井戸状の設備を目にした。昭和五十三年設置の「西沢集水井工」で、車道を保護する地すべり防止の水抜工である。次第に小尾根上に道の痕跡を感じるようになった。さらに少し登ると、コンクリの土台に電気コードが巻かれたプラ管が立っていた。これも集水井工の関連だろうか。露岩の急斜面が現れ、踏跡は捲くように斜めに緩く登った。道型というほどで明確でなく、様々に踏まれあやふやだったので、尾根に絡んで離れないものを追った。今度は左側の窪状地形に入り、笹の中の痕跡や道の薄い断片を拾って登るも、道の確信が持てなかった。振り返って見下ろすと、笹の僅かな凹みからようやく経路が推測できる状態だった。その痕跡すら崩れや倒木で寸断され、しばしば見失った。本来の道は小刻みな電光型で登っていたように思えた。色あせた白とピンク(本来は赤?)の二重巻きの古テープも幹に同化して目立たず、目の前にあるのに気づくまで間があいた。やがて尾根的な明瞭な地形になり、やや広い道型がぼんやり浮かび上がってきた。
ちょうど一六〇〇米で、明瞭なトラバース道の痕跡になった。かつての木馬道である。かなり荒廃しているが元々は立派な道だったので、笹原の中で十分識別することが出来た。先程までの明らかな登りの後だけに水平に見えてしまうが、僅かに登り勾配になっており、かつての木馬道だったことを示していた。マーキングのビニールテープが時々みえた。笹原のトラバースで、右下からの別の細い踏跡が迫ってきてやがて合流した。広さはあるが荒廃のため、歩きやすいとは言えなかった。北西に上がってくる涸窪を回り込むところが崩壊していた。ここは非常に重要なポイントである。水平に続く明瞭な道型がその続きに見えるが、それは鬼45空中図根点近くを通って清水沢源頭で行き止まる支線作業道であるである。別の機会にこの支線も歩いて確認したが、一七五三独標東尾根を回る部分がシャクナゲに覆われ不明になっている以外は、概ね道型を追うことが出来る。道が消えた涸窪上がちょうど分岐になっており、すぐ先の大倒木で甚だ分かり難いが、斜めに登るのが噴泉塔道である。更に紛らわしいことに崩壊涸窪から約五十米進むと、道は深いV字に折り返す。この折り返し部も、倒木と荒廃のため慎重に道型を観察しないと分からなくなっていた。折り返し後の木馬道は、多少荒廃気味かつ斜度を増しつつ山腹を上り、約一六八〇の肩状で支尾根を乗越した。緩い幅広道になってからここまでの平均斜度は約九度、典型的な木馬道である。道端の大日本麦酒の空瓶が、昭和十年代のハイカーを急に身近に感じさせた。
ここから明治、大正期の坑木伐採地区に入り、道はほぼ水平になった。できるだけ多くの坑木を収穫し運搬できるよう、水平に作ってあるのだろう。すぐ先で、下で見たのと同じ巻き方のテープを見た。見たところ二十年ほど経ったものだろうか。それほど遠くない昔に、まだこの道を歩く人がいたことが分かる。肩状から百米ほど先の小窪に水が流れていた。川村が報じた唯一の水場[22]とはこのことだろう。ダケカンバが優占するこの一帯は、金山操業当時の伐採跡であろう。寒冷な奥鬼怒では百年近く経過しても、まだ陰樹への植生交代が生じていない。ビール瓶のある肩から十分弱で、一七五三独標の北尾根を回った。笹に覆われた明るく緩やかな場所である。ここで見つけたマックスコーヒーの空缶は、利根ソフトドリンク製造当時のデザインなので、一九七五~一九九一年のものである。
この地点には湯沢右岸道から古い作業道が登ってきている。一四七四、一六二一の二つの独標がある尾根に絡んで、断続的な薄い踏跡が今も残っている。一四七四独標付近のポッカコーヒー空缶が一九八七~一九九二年のデザインなので、約三十年に何らかの目的でこの尾根を登った人がいるのだろう。他に古いオレンジジュース缶も見た。私もこの付近に入る便利な登路として二回通ったことがあり、慣れてくれば一四七四付近の岩稜通過のコツも分かって、湯沢右岸道からここまで一時間程度で登って来られる。
道は、清水沢(地形図の笹倉沢は間違い)の団扇のように広がった源頭を大きく回っていった。「高薙山の頂上が正面に見えるように歩いて行く」のは、文献[4]通りであった。この辺り「枕木がずっと並べて敷いてある」歩きよい道だったと言う。割れたビール瓶やサイダー瓶の破片が見つかり、楽しいハイキングの様子が想像される。今も何とか道型が保たれているのは、足跡からしてシカのおかげらしい。態々ヒトが作った遠回りの水平道をシカが歩くのは、伐採のおかげである。何しろ一度すべて切ったのだから、原生林に比べて倒木すべき木が少なく、比較的道がよく保たれているのである。それでも数十年が経過して道の真ん中から生えた木がそこそこの太さまで成長しており、もしくは灌木が茂ったりして、一部に通れない箇所が発生していた。先のマックスコーヒー缶の尾根からは、まだ完全に伐採されておらず、切り払った場所と切残した場所とが混在していた。
高薙山北東尾根の一七五三、一七七二の二つの独標の鞍部下に、伐採跡なのか湿地的な場所なのか、ツガの原生林の中で少し開けた場所があった。元々あった赤白テープに白テープを巻き足し、三重巻きにした。ビール瓶の肩からここまで、木馬道はほぼ平坦で、地形図でやっと認識できる程度のごく緩い登りだった。シカ道らしき下り気味の踏跡が分かれると、道は急にヤブや倒木が被さり、再び緩く登り出した。シカが通らぬ分、荒れ放題になっているのだろう。辛うじて道を追うと、数分先の一七七二独標下の辺りに、また開けた場所があった。先程の場所より周囲の森が開けたダケカンバの多い平坦地で、丘のような低い支尾根が目の前にある気持ちの良い場所だった。ここにも赤白二重巻きテープがあった。これを付けたヒトは、何のためにどこへ向かったのだろうか。もし高薙山へのアプローチとして使ったとしたら、ここから取り付けばなかなか効率よい方法と思える。
木馬道らしい幅広の明瞭な道型は、この地点を最後に姿を消した。明治期に皆伐を受けたのがここまでであることは、植生図[25]や営林署図[14]からも明らかである。昭和十四年のガイドで、噴泉塔から来た場合、少し下り気味になり始めた先の水がある場所が木馬道の終点だったと言うので[49]、この地点のことであろうか。とするとこの先は、往時も普通の登山道だったことになる。笹の中で道は途絶えがちになり、道型も部分的に辛うじて認識される程度であった。最後のテープを見たのが、不明瞭区間に入ってすぐの辺りであった。テープを付けた人は道の追跡を諦めたのかも知れない。道型は一度戻り、普通の登山道程度に歩けるごく緩い登りとなった。その後、明瞭・不明瞭を何度も繰り返し、道が北に完全に北に向かい急斜面をトラバースする頃には、笹と倒木と崩礫でほぼ不明になった。大尾根に差し掛かり再び西を向いた部分で、上下二〇米分の標高差を捜索するも良道は存在しなかった。明滅する微かな痕跡も、ヒトの残したものか獣道かすら判断できなかった。すぐ左に緩やかな峠状地形が現れるのは、一八〇七独標南の凹地への入口に当たる部分である。さらに進んだ一八〇七独標北は、深い針葉樹と苔に覆われた、地形図では分からないが小さな凹凸が波打ち、小窪が入り組んで、どちらへ進めばよいか見当が付かない場所であった。点在する古い切株から、昭和四十年前後に今市営林署が索道を張り巡らして択伐を行った一帯であることは明らかだが、人間の残した痕跡は森の生命力に覆い尽くされ、全く方向が分からなくなっていた。
● 高薙山北面の湯沢への下降開始点~湯沢渡渉点
明確な道の痕跡が見つからないため、正道と予測した一八〇七から噴泉塔に向かって北に出る尾根を下り始めた。深い森の中に択伐された多くの古い切株を見た。波打って歪んだ地形に注意しながら、一六七五~一六九五米付近の超緩斜面を目指して慎重に下った。空中写真で認められる、昭和四、五十年頃の伐採時の作業基地と思しき切り開きの地点である[26]。その場所に着いて見ると、思ったとおりだった。これだけの深山にしては、衝撃の光景が次々と現れた。ダケカンバと細いブナが優占する明るく開けた皆伐地が尾根の左右に幾つも開かれ、緩斜面の上下に分布していた。それぞれには、伐採当時のありとあらゆる資材の廃物が散乱していた。ワイヤー、ドラム缶、ガロン缶、トタンの破片、プラスチック、電線、ビンなどが大量に廃棄されていた。一方、酒瓶、ビール瓶、醤油缶、ストーブ、ビニール袋など、生活物資のゴミが多い箇所には、大規模の飯場があったことは間違いない。昭和八年の資料に、高薙山~湯沢間が「この辺は、東京大林区署の天然更新試験地である」[50]とある。天然更新とは伐採後植林せず保残木から森を自然回復させる方法で、既に当時から択伐が行われていたようである。
伐採作業基地からの下り方向もやはり不明であった。約五十年前に存在したこれだけの大規模施設へ至る道が全く残っていないことから、それ以前の道の明確な痕跡が認められないことも納得できた。それでも痕跡を探しつつ尾根を少し下ると、尾根に絡む笹の中の曖昧な踏跡が見えてきた。苔に覆われたツガの森から、地表をササが覆う広葉樹の森へと植生が変わったことが理由であろう。ササに中にシャクナゲも混じってきたが、「日本一のシャクナゲの密林である」[51]、「六月初旬の花季には美しい」[5]と言われた素晴らしいシャクナゲ林は見られなかった。尾根は一六〇〇米付近で複雑に分裂し、曖昧な痕跡は西に転じて一つの支尾根を下っているようだった。急激に下るうち、左に小沢が見え始め、やがて右も水音はないが窪状になって、細い尾根を急下した。なるほど、文献で左に小沢が沿うというのはこの部分であろう。文献が正しければ、次には方向を右に転ずるはずである。右には急な小窪があるので、それを渡れるチャンスを伺った。このまま下ってもますます急になって湯沢上流に出てしまうので、そこが右曲する地点のはずだからだ。
噴泉塔付近の道 (出典:国土地理院 基盤地図情報 数値標高モデル 5mメッシュ) |
一四八〇米付近で尾根の傾斜がいったん緩み、右の小窪も幾分傾斜を緩めたようだった。尾根が再び急になると痕跡が消えたので、やはり道は右に折れて微流の小窪を渡っていると判断した。だが低い笹の斜面に付いた痕跡はかなり弱く、道との確信は持てなかった。小窪を渡ると右岸に微かな踏跡が現れ、広葉樹の森を斜めにトラバースしながら下っていた。明らかにシカ道に見えるが、往来が途絶えたヒトの道をシカが受け継ぐのはよくあることだ。湯沢の沢音がうるさいほど耳に飛び込んできた。水平な痕跡が分かれたり、途中の微小尾根を下る痕跡があったりして、正道が判断できなかった。とにかく比較的しっかりした、直線的に斜めに下る踏跡を辿った。踏跡は小さな尾根を真っ直ぐ下り、尾根が緩むと左に下って、ちょうど赤い「吸い殻入れ」の前に出た。噴泉塔の左岸を急登した場所にある、あの灰皿である。背後の壁のような高さ十米弱の小尾根を乗越すと、湯沢渡渉点であった。
ところで文献では、高薙山から道が降りてくる地点は、この吸い殻入れの地点ではなく、背後の小尾根の上流側の河原であり、食い違いがある。地形図を見ると、トラバースしながら下ってきた斜面を真っ直ぐ下れば、ほぼ湯沢の渡渉点ちょうどに出ることが分かる。現在の踏跡は、まさに噴泉塔に行くために作られたようなコース取りになっていた。従って後年付け替えられた道の可能性がある。
【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)
- 清水沢右岸尾根の作業道(湯沢右岸道から分岐して登ってくるもの)
[49]矢島市郎『日光・鬼怒高原』三省堂、昭和十四年、「噴泉塔と高薙山」六二~六四頁。
[50]横井春野『登山旅行案内 : 関東中心』野球界社、昭和八年、「湯元温泉から川俣温泉をへて尾瀬沼へ」二八七~二九二頁。
[51]横井春野『登山案内 上巻(関東・信越篇)』白揚社、昭和十年、「湯元起点噴泉場をへて八丁の湯へ」二八九~二九〇頁。