西沢金山・奥鬼怒道(湯元~西沢金山~噴泉塔~手白沢) page 2 【廃径】

【道の経路】
 区間ごとに順を追って見ていくこととする。幸いハイキングが流行した昭和十年代によく歩かれたコースであるため、複数の参照可能な記録が残っている。
 まずは湯元温泉~西沢金山の区間である。古くから開けていた湯元温泉は、金山を尋ねる技術者や、連絡事務員の足場となっていた[1]。現在も、湯元の日帰り温泉「湯の香」脇から、国道を横切り蓼ノ湖をかすめて、古峠に至るまでの区間は、遊歩道として使われている。峠からは遊歩道を離れ、ドビン(ブンビン)沢を二度渡り返し刈込湖畔へ下る[6]。刈込湖の直前で峠道は左に分岐し、平坦なブナの森を通り、電光型に登りだす[18]。金田峠までは小刻みなジグザグの急登だが、かつては道が良かったそうだ。

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金田峠付近の峠道
(出典:国土地理院 五万分の一地形図「男体山」大正元年測図、大正二年発行)
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金田峠の詳細地形(等高線1m間隔)
(出典:国土地理院 基盤地図情報 数値標高モデル 5mメッシュ)

 一九七一、一九四九の両独標に挟まれた峠の位置は、地形図では明確に分からない。初版地形図では刈込湖から来た道は、鞍部の最西端付近で稜線を越え、一八七三米最低鞍部近くまで稜線に絡んで東へ下り、電光型に西沢へと下っている。大縮尺の五万図では明確でない細部は、基盤地図情報から作成した詳細図地形図(下図)と、現地を歩いて実際に見ることとで、よく分かる。刈込湖から登ってきた峠道が稜線に出た地点の、約二十米東に石祠が置かれていた。かつて捕鳥場であった峠には捕鳥小屋が立っていて、十月末から霞網で鵜を獲っていたという[4]。この一帯だけは尾根が広くなっていて、捕鳥小屋が立っていたというのも頷ける。東に向けて痩せた稜線には登山者が付けたと思われる明瞭な踏跡があるが、それとは別に稜線の北斜面に絡んで緩く下る峠道の痕跡が残っていた。峠道は一八五五米の最低鞍部を通らず、北面をトラバースしたまま西沢へと下っていた。曖昧な峠道の痕跡を観察する限り、金田峠の約二百米東で、新道と旧道が分かれていたようだ。しかしてんでバラバラに並行する多数の断続的な踏跡があり、厳密にどれが峠道かはもはや判断不能になっていた。なお「金田峠」の私設表示板が設置された最低鞍部は、崖状に南側にシャクナゲヤブが繁茂し、地形的にも植生的にも峠道が越せる状況はなく、ここを峠道が通っていたとは考えられず、南に下る道型もない。

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金田峠~西沢金山の経路の変化
(出典:国土地理院 五万分の一地形図「燧ヶ岳」)

 金田峠から西沢金山へ下る道は、昭和初期に付け替えられており、いまの道(新道)は鉱山最盛期のものではない。初版地形図に見る付け替え前の道は、金田峠から初め九十九折れて数十米を下り、その後山腹を緩く下って湯沢を横切り、湯沢左岸尾根を越えて棒日沢に入り、西沢へと下っている[19]。地形図の道筋は概ね正しいが、唯一問題なのが湯沢の渡り方である。地形図では湯沢を水平に大回りして通過しているが、明治三十七年に平林が調査した一万八千分の一鉱脈図[20]、大正五年に鉱山会社が刊行した西沢金山実測図[12]を見ると、いずれも湯沢へ真っ直ぐ下り対岸を登り返している。標高差で約四〇米のアルバイトになるので不自然な感じもあるが、いずれも個々の鉱脈の位置まで記入した鉱山関係者による詳細図なので、ここではまずそれを信頼することとしよう。 明治四十一年の須田正雄の記録では、西沢金山から金田峠に向かい、白濁した沢の白い右岸の崖下を登り、やがて左岸に渡り森林に入ると、後はうねうねと登り、補鳥場のある金田峠の草原に出たという[21]。 また大正十三年に武田久吉が西沢金山から金田峠へ登った時、「卵黄色の渓膚」を見て、三本以上の高薙山東面の渓を渡り、コメツガの密林を通って最後に一登りし、補鳥小屋のある峠に達したという[16]。 この記述は、今回実際に通行した時の光景とよく一致していたので、概ね経路を追うことができたと思われる。武田が歩いた当時、道は荒廃していたと言うものの、まだ旧道が使われていたようだ[17]。
 一方、地形図が示す付け替え後の道は、相当間違っている。この区間はちょうど地形図の境目に当たり、西沢金山側は昭和四年、金田峠側は二十一年の要部修正で、峠から下って金沢に入り、さらに湯沢沿いに西沢金山まで下るという新道に置き換えられた。だが実際に湯沢を下ってみると一五六〇米付近に両岸が切り立った十二米滝があり、通過はおろか高巻きすら不可能である。地形図の道が実在し得ないことは、明らかだった。昭和十年に通行した、川村[22]、中村[23]が相次いで新道の経路について報告した。道は金田峠から於呂倶羅山の北面を捲き、金山施設の最上部、坑夫長屋の上で山王峠道に合していた。金山は昭和七年から日光鉱業株式会社により事業が再開し、一時的に活気を取り戻していた。道が付け替えられた理由を推測すれば、坑区の中を縦断して谷底まで下り再び市街地へ登り直す旧道より、峠から無駄なく事務所や社宅へ直行可能な経路として開設されたのではと推測される。金田峠越えが廃れた今日でも、道の状態から見て、新道は細々と使われているようだ。西沢金山付近は王子木材緑化の社有林であるため、伐採など山林関係の業務で使われているものと見られる。

 金山の町並を抜け、川俣道と分かれて噴泉塔への山道に入る地点は、町から分岐まで十~二十分、距離で約十丁(約一・一粁)とされている。「沢二つとんでわたり、対岸のレベル径へはいあがる。」[18]というので、西沢の右岸支沢である湯沢と本沢とをその出合付近で渡渉し、左岸の高みにある川俣径へ登り返していたことが分かる。「(川俣から来て)金山は益々近くなり、漸く眼下に見えるところまで来ると棒杙(ボウグイ)があって、「噴泉塔道」として右手の高い山に登って行く細い路を指し示している。」[10]とあり、「左(山を登る)噴泉塔を経て八丁、日光沢温泉約十一粁、右川俣温泉八粁、今市営林署」と表示されていた[6]。その分岐点で、川俣から来て始めて金山周辺を見下ろせるという[10]。西沢を渡って二、三分[24]で、さらに川俣側に寺の供養塔があり[6]、また旧版地形図が示す破線が荒沢左岸尾根を登っていることから、分岐の位置は間違いなく荒沢左岸尾根上であろう。荒沢とは、高薙山北東尾根上の一七七二、一七五三両独標の間に食い込む沢のことである。

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西沢金山付近(『西澤金山大觀』の「西沢金山実測図」より引用)

 高薙山への道は、笹が茂るガレた道を小さい折返しを入れて二、三十分急登することが、多くの記録から分かる。途中の小さな平地に大根畑があったというのも、当時の様子が知れて面白い。その脇の「噴泉塔道、右ノ薙ヲ上ルベシ」の表示に従うも、その付近の道ははっきりしなかったという[10]。現在もこの辺りは、歩きにくいガレ気味の部分があったり、低い笹の中のどこを歩けばよいかはっきりしない踏跡を拾って登る部分である。登り着いたところに、白樺の枕木を敷いた噴泉塔への道があると言い、別の道と言えるほど打って変わって良い道に出ることが伺える[10,21]。水平道が始まる地点は、諸文献で「肩」と表わされる[4,22]、一七五三独標から北東に出る支尾根が緩んだ約一六八〇米の地点である。
 高薙山を捲く部分は、坑木切り出しの平坦で歩きやすい木馬道が一里も続くとされる。肩から十分で、この区間唯一の水場がある[22]。この辺りは、旧版地形図の道の位置でほぼ正しい。道は清水沢(地形図では笹倉沢と誤記)の源頭を、不正確な旧版地形図よりも実際の地形に従い深く回り込む。それに気づいた川村は、「地図の高薙山東北の凹みは割に長い」と指摘している[22]。高薙山を正面に見るこの付近でも、杭木運搬用の木馬道の枕木が並んでとても歩きやすい[4]、「之より一里余は木橇道にして割合に平坦」[9]とされたことからも、木材搬出が行われたことが示される。一七五三独標周辺一帯のこの木馬道から上の部分は明治三十八年頃に伐採された[14]ので、この道は、山側の四八林班「と小班」のダケカンバ二次林と谷側の「ち小班」のコメツガ原生林のちょうど境界となっている[14,25]。植生を見ると[14,25,26]、清水沢が南に一番切れ込んだ辺りが、明治期の伐採地区の終点と分かる。その先は「原始時代そのままの処女林のなかをかなり歩いた」[10]、「四辺の静寂に負けてか自分は持参の笛を吹いては元気づけている」[26]ともあることから、道は作ったものの伐採が進む前に休鉱となり、原生林が伐られず残っていたことが伺える。
 水平道が噴泉塔へと下り出す地点は、明確に割り出すことが難しい。前述のようにこの付近の旧版地形図は著しく歪んでいるため全く当てにならないが、少なくとも噴泉塔へと落ちる尾根に絡んで下っていることは確かなようだ。しかし一帯は尾根や谷が不明瞭な火山性地形であり、水平道が通る一七〇〇~一八〇〇米付近には明らかな尾根が存在しない。「見落とすような下り口」[4]、「道は二分し、右の細い方に入る」[22]、のように、先へと続く水平道から分かれて下る小さな踏跡が下り出しだったようだ。分岐の位置は、「この(註:高薙山北東の凹みの)途中で道は大小二分している。」[23]というが、実際に噴泉塔へ下るには凹みをちょうど抜けた辺りの大尾根に取り付くのであろう。空中写真を観察すると、湯沢右岸にかけての高薙山北面の広大な森は、昭和四、五十年頃、多数の索道を巡らせた大規模な択伐が行われたことが分かる[26,28-30]。今市営林署が奥鬼怒の開発に乗り出したのは、昭和二十六年である。当時、王子造林(現・王子木材緑化)の持山だった山王峠北側の門森沢一帯の森林の伐出しを行うため、車道が通じていた白洲へと搬出するための索道工事が行われていた。さらに国有林内の伐採を行うため、この道の西沢金山から手白沢までの現地調査が行われ[31]、三十一年から湯沢右岸の四八林班で択伐が開始された[32]。当時この辺りへ入る歩道は、車道が通じていた西沢金山跡からだけであり、この道は伐採時の作業道としても使われていたことであろう。噴泉塔へ下る尾根は一六〇〇~一七〇〇米付近だけが明瞭になっているので、道はここを通過していた可能性が高い。尾根上の一六七〇米付近には伐採時の作業基地らしき大規模な切り開きがある[26]。
 噴泉塔へ向かう尾根は、次第に形が不明瞭になって消えてしまう。この部分をどの様に下って、湯沢のどの地点に下り着くのだろうか。八、九十年前にここを通った多くの文献の記述にはかなりの共通部分があるので、それらを継ぎ合わせれば、ある程度の精度で経路を推測できる。道の左に小沢が沿うようになると道は次第に右曲し[4,5,10]、やがて湯沢に出た地点の対岸に手白沢への道が登っていくのが見える[10]。噴泉塔はそこから湯沢の右岸を、小尾根を越えて数十米下った下流側にあり[3-5,10,33]、その途中で川俣への噴泉湯林道が分かれている[5,22,23]。なお噴泉湯林道は今は消滅した営林署の巡視道で、湯沢右岸を高く捲いてホリホリ沢で西沢金山からの旧道に合していた[6,23]。また湯沢渡渉点までの下りについて、多くの文献が、「木の根につまづき、滑りながら」[27]、「木につかまり草にすがり漸く通るほど」[3]、「唯樹の根を階段としてやっと下ることが出来る」[10]など峻険さを謳い、また立派なシャクナゲ林についても触れている。シャクナゲの美林はもはや失われているが、今でも伐採作業基地より下の随所に小群落が見られる。しかしどの辺で特に多いとも言えないので、道の位置を特定する情報にはならない。また「道の左に沿う小沢」は、基盤地図情報(標高5M)が示す詳細地形を観察すると、一三六七米付近で湯沢に出合う右岸支沢と考えられる。
 湯沢に下り着いた道は、右が川俣と噴泉塔、左が手白沢と分かれ[22]、川俣温泉、西沢金山共に六粁、三時間で悪路、との営林署の表示があったという[24]。そこから渡渉してすぐ登り出す手白沢への道が見え[10]、噴泉塔へは、「川の岸の山に上る。それから少しの間岸に沿うた細い径を行くと再び川の中に出た。」[10]、「噴泉塔は、急な五〇米位な尾根を越えた湯沢の渓谷の西側の岸にあって」[4]、「湯沢に沿うて少し下り五十米程の痩尾根を越した処」[5]、「沢の右岸を下流に行って小さな尾根を乗越すとそこに噴泉塔がある」[34]、「大岩を小さく高まき、急な小窪を下って滝下の岩上に立てば」[18]、のように小尾根を越えて急下することから、それを満たす渡渉地点が特定できる。それは現在の営林署歩道の湯沢渡渉点とも一致する、一三六二米付近である。前記のように旧版地形図が示す渡渉点は全くの誤りだが、営林署図[14]ではやはり約一三六〇米を示しており、現在の渡渉点もその地点なので、間違いないだろう。現地で地形を具に観察したが、噴泉塔付近で右岸の山から下りてきて湯沢を渡り左岸の山腹に取くことができる地点は、そこしかない。「来た方(註:右岸)の右手に少しく広く空き地があって(中略)川向うに細く径が登って行く」[10]という地形や、渡渉点付近に温泉がある[6,18]という文献の記述ともよく一致する。渡渉点付近のやや下流側に、今も温泉が湧いている。

 湯沢渡渉点から手白沢までは、顕著な地形特徴がなく、目印になるとしても大きなガレぐらいなものである。凹凸の少ない山腹をただトラバースする道のため、文献からの経路特定が難しい。古文献によれば、手白山の肩まで登っては下りを三度[27]、ずっと登り続き[22]、高薙山以上の急登[4]など、曖昧かつ整合性が少なく、手白沢への下りについても目ぼしい記述がない。地形図はといえば、噴泉塔位置の修正が平成二十三年更新で漸く実現したが、それ以前の道が記入されていた図では大きく間違っていて、やはり参考にならない。また「道の盛衰」の項で詳細を述べるが、湯沢徒渉点~手白峠の区間で崩壊に伴う道の付替えが行われた[34]。そのため新道、旧道の二道が存在する可能性がある。そんな中、経路を正しく示した唯一の資料が、平成五年の営林署図である[14](前後の版も正しく示したものがあるかも知れないが、未確認)。約一三六〇米の湯沢渡渉点から、二つの小尾根に挟まれた小さな窪状地形を登り、その地形が山腹に消える一五三〇米辺りから斜めに登り、逆V字型のガレの一つ目の足の直下を通過、二つ目の足を横断、小尾根に達すると直登して一七八〇米付近で手白山の肩に達し、そこから斜めに下り、イセ沢左岸尾根を少し下ってから再び斜めに下り、明大奥鬼怒山荘を遠目に見ると新助沢に急降下、新助沢左岸尾根を回って手白沢温泉に至るというものだ。図にある手白山の肩を越す時の不自然な登りは図の歪みか何かと見られ、一七五〇米付近で肩を越していると読み取れた。惜しむらくは森林計画の概略図のため、噴泉塔付近の森林構成の表示が混み入ってしまい、噴泉塔~湯沢渡渉点までの区間で道が省略されている。一方昭和三十九年の文献では、『小曽根状となって「のぞき」に出ると、崖下の湯沢上流に滝がかかっている。』とされている[18]。昭和の文献は直ちに尾根に取り付き、平成の資料ではまず小窪状を登るというように、渡渉直後の道筋が明らかに異なっている。実際に歩いてみて、確かに二つの経路の痕跡を確認した。新道と旧道は一五〇〇米付近で一度統合されるが、実際の通行時に見た、一五三〇米付近の平坦地から一六四〇米付近で渡るトラロープのガレまで、現在の経路とは全く別のある程度踏まれたルートがあったので、それが旧道であろうと憶測される。実歩行で認められた旧道の推定経路は、一五三〇米付近平坦地からトラバース気味に北へ上る新道から離れ、一六〇〇米付近まで緩斜面を真西に登り、一転して北に向きを変えトラバースしながら緩登しトラロープのガレで合流するというものだ。部分的にある程度明瞭な踏跡が残り、さほど古くない落とし物を見たことからして、これはこれで一つのルートであるようだ。さらに間接的な支持理由ではあるが、国土地理院地形図の旧版地形図の道と極めてよく一致することが揚げられる。「地形図の歪み」の項で述べたように、国土地理院図は、噴泉塔付近の地形が極めて酷く歪んでいる一方、三角点のある手白山付近では非常に正確である。従って、旧版地形図が表す湯沢徒渉点付近の経路は全く当てにならないが、手白山直下をトラバースする部分では、かなり正確に表現されている可能性がある。また幸いなことに、この区間は廃道化してから十数年しか経過しておらず、二〇〇〇~二〇一〇年頃のインターネット上の記録を参照することができる。それらは全て、営林署図の正しさを確証する内容であった。従って少なくとも新道の経路は、営林署図のもので間違いなかろう。なおこの道の開通当時はまだ手白沢温泉がなかったので、古文献にある「手白沢を渡った処を二丁(註:約二百二十米)程入ると、今年(註:昭和十一年)から開業した、手白澤温泉がある」[4]とした手白沢を現在より低い位置で渡る旧道は、工事や災害による付近の地形変化を見ると、すでに失われたと考えられる。
 ところでこの道の手白沢~湯沢渡渉点~噴泉塔の区間は、日光国立公園の歩道「夫婦渕尾瀬沼線」の一部であり、日光国立公園(日光地域)公園公園計画書(平成十七年)に整備方針として「登山道として整備する」と明記されている。しかし見たところ、予算・人員不足で整備が全く追いついていないようであった。実態としては放置されて年々荒廃が進み、現時点では既に消滅しかかっている印象だった。

【道の盛衰】
 金山の事業開始に伴い、まず湯元~西沢金山が明治二十六年頃[13]に開設された。西沢金山~湯沢渡渉点~噴泉塔も、坑木確保とおそらく探鉱のため大正十二年頃[36]に開通したとされ、実際大正十三年の論文[3]に記載がある。大正末期の閉山後は、今市営林署管理下、湯沢渡渉点~手白沢の巡視道が恐らく大正十二年頃[36]作設された。同十五年に手白沢温泉を通った法大隊が、道の存在を報じている[37]。一方閉山に伴い、湯元~西沢金山の道は「かなりに荒れて、所々笹をかぶって」いたことが武田の紀行から知れる[16]。しかしハイキング全盛期の昭和十年代になると、開業した奥鬼怒温泉郷への経路として、多くの記録や案内に紹介された。昭和二十年代には、掌を返すように報告がなくなった。目にした唯一の記録は、二十六年の伐採事業者による踏査記録である。大倒木が道を塞ぎ、コメツガ、アスナロ、トウヒ、クロベの大木が手白峠までずっと続く、見事な原生林の姿が記録されている[31]。昭和十九年に青柳平、二十八年に川俣までバスが入ったことで[38]、湯元から幾つもの峠を越えて奥鬼怒に入るこの道は価値がなくなったのである。登山者が激減したことは、想像に難くない。
 昭和二十九年のガイドでは、青柳平までバスを利用しトラックを掴まえて便乗し、川俣温泉から入山、手白沢、噴泉塔、西沢金山と歩き、車道を歩いて光徳牧場へ抜けるコースが紹介されている[38]。効率と関係なく無駄に歩くハイキングコースではあっても、奥鬼怒温泉郷への実用的な経路としては、意味を失っていたのである。三十五年に歩いた串田は、湯元を昼過ぎに出発、雪がちらつく中、西沢鉱山跡を通って四時間ほどで湯沢渡渉点に至り、懐中電灯を手に真っ暗な中を手白山を越えて手白沢温泉まで歩いた。刈込湖から金田峠に掛けて、倒木が多い笹の中で道が不明になったという。だが夜道を不安なく歩いたことから手白山越えの部分は明瞭だったと見られ、現在通過に苦労するガレもまだ発生していなかったようだ[39]。三十四年の伊勢湾台風、三十六年の第二室戸台風など、度重なる台風被害で通行不能となったが、その後の手入れで通れるようになったという[40]。しかしガイドブックへの収載は、三十八年刊が最後となった[40,41]。昭和四十年の登山地図にはまだコースタイム付きでガイド文と共に収載されていた[42]。昭和初期のガイドと所要時間は同じで、難路等の注釈もなかった。そのころ高薙山北斜面の大規模な択伐事業が行われており、大規模な作業施設が建設され沢山の作業者が入山したと見られる。この道が唯一の到達経路であることから、西沢鉱山~高薙山北斜面の区間が作業者の通行に利用されたことであろう。しかし金田峠付近や噴泉塔へ向かう部分は、通る人がいなくなったと考えられる。地形図はと言えば、昭和四十六年の資料修正版で、五万分の一地形図(燧岳、男体山)の刈込湖~金田峠~西沢金山~湯沢渡渉点が削除された。日帰りハイキングに利用されていたであろう、湯元~刈込湖と噴泉塔~手白沢の区間だけが、何とか残ったわけである。以後の登山地図もそれに従ったようだ。
 賑やかな湯元からの刈込湖への道は今もハイカーに歩かれるが、山深い手白沢~噴泉塔のコースは衰退していった。日光沢温泉が土石流に埋まるなど奥鬼怒に大きな被害をもたらした昭和四十一年の台風二六号が恐らく原因となって、手白山東面に大ガレが発生した[28]。昭和五十年の登山地図[43]、五十二年の記事[34]では、手白沢~噴泉塔は落石や崩壊で通行不能とされていた。恐らくその復旧工事を兼ねてと思われるが、昭和五十三年度に手白噴泉塔歩道の整備工事予定が記録されている[35]。既存歩道付近が崩壊し危険なため千米の迂回歩道を新設するとのこと、かなり長い区間で道を付け替えたことが伺える。具体的な箇所を確認できる資料はないが、思い当たる節はある。道の経路の項で多少述べた様に、湯沢渡渉点からトラロープの大ガレまで、平成の営林署図[14]が示す経路が新道、「のぞき」を通って尾根通しに登り手白山直下でトラバースを始めるルートが旧道と推測される。地図上で見る新道の距離は、ほぼ千米と計画に一致する。巡視道を兼ねた新道は、「レクリエーションの森」整備の一環として今市営林署が作設したと思われ、噴泉塔から手白沢温泉の区間の所々に赤い筒状の吸い殻入れが設置されたようだ。廃道化して道標が朽ち果てた今は、重要な道しるべとして機能している。手白沢への道は、台風等による荒廃と再生を繰り返したと推測される。昭和五十七年の台風以来不通になっていた道を、六十一年に手白沢から登った登山者は、手白山を越えて湯沢側の大ガレまで行き、山慣れした本人は不自由なく歩けたが、同行者の安全を考え引き返したという[44]。その後、道の再整備が行われたのか、平成十三年以降、数多くのホームページ制作者やブロガーによる報告がアップロードされている。具に見ると、十三年にまずまずであった手白沢~噴泉塔の道が、年々少しずつ荒廃し、二十二、三年には整備されてはいるが不鮮明だったといい、この頃を最後にハイカーの記録は途絶えた。以後は技術を持った登山家の記録だけとなり、二十八年には明滅する道は道標も失われ、ガレの通過が危険な状態だったという。

[18]金子欣三『東京周辺の山々』朋文堂、昭和三十九年、「金田峠から奥鬼怒へ」三二九~三三〇頁。
[19]陸地測量部『五万分一地形図 男体山』(大正元年測図)、大正二年。
[20]平林武「西澤金山」(個人資料『フィールドノート』第四号、五四~七〇頁)、明治三十七年。
[21]須田正雄「栗山の秋」(『山岳』六巻二号、二三~四〇頁)、明治四十四年。
[22]川村幸雄「裏日光霧の旅」(『ハイキング』三八号、七二~七九頁)、昭和十年。
[23]中村謙『上越の山と渓』朋文堂、昭和十年、「鬼怒沼から日光へ」二八五~二九〇頁。
[24]山田栄次郎「狩小舎より至仏、尾瀬、奥日光」(『岳(三越体育会山岳部報)』四号、一~一五頁)、昭和八年。
[25]環境省「川俣温泉」(『1/25,000植生図 自然環境保全基礎調査』)、平成二十三年度修正。
[26]国土地理院『空中写真(男体山)CKT763(1976/10/6)』、昭和五十一年、C9-17。
[27]佐藤好一「日光より尾瀬へ」(『山小屋』一八号、四〇五~四一〇頁)、昭和八年。
[28]国土地理院『空中写真(日光)KT633YZ(1963/11/4)』、昭和三十八年、C1-30。
[29]国土地理院『空中写真(川治)KT7110Y(1971/11/5)』、昭和四十六年、C13B-5。
[30]国土地理院『空中写真(男体山)CKT763(1976/9/24)』、昭和五十一年、C10B-5。
[31]佐藤善助「原始境・奥鬼怒をゆく」(『旅』二五巻九号、四二~四五頁)、昭和二十六年。
[32]藤原信「奥鬼怒 ”スーパー”林道に関する資料 (Ⅰ)」(『宇都宮大学農学部演習林報告』二〇号、七七~八三頁)、昭和五十九年。
[33]編集部「奥鬼怒の旅から噴泉塔へ」(『山と渓谷』一八〇号、九二~九三頁)、昭和二十九年。
[34]編集部「奥鬼怒温泉郷」(『旅』五二巻一〇号、二五八~二六一頁)、昭和五十二年。
[35]栃木県林務観光部『事務執行の概要:林業と観光のあらまし 昭和53年度』、昭和五十三年、「3 国立公園施設整備事業」、七七~八三頁。
[36]小松長久『桃源境 奥鬼怒』福村会、昭和五十八年、「加仁湯の由来」八六~八九頁。
[37]東京商科大学一橋山岳部「年報」(『針葉樹』二号、別冊「山小屋」二八頁付近)、大正十五年。
[38]栗山村誌編さん委員会編「栗山村誌」 栗山村、平成十年、「二 物資の行き来」一九一~一九五頁、「栗山村の歩み 略年表」四六八~五〇一頁。
[39]串田孫一『日本の自然:四季の旅』雪華社、昭和四十年、「湯元から手白沢へ」一八〇~一八八頁。
[40]中村謙『ニュー・マウンテン・ガイドブックシリーズ1 尾瀬高原』朋文堂、昭和三十八年、「六 六つの関門6奥鬼怒口」三八~四二頁。
[41]戸塚文子『四季の行楽』大泉書店、昭和三十八年、「奥鬼怒渓谷の野天ぶろ」五三~五八頁。
[42]川崎隆章『登山・ハイキング・スキー8 奥日光・奥鬼怒』日地出版、昭和四十年。
[43]沼尾正彦・中川光熹『登山・ハイキング・スキー8 奥日光・霧降高原・奥鬼怒』日地出版、昭和五十年。
[44]林邦明『ウッディ・フォレストの雨の山と林道歩きが好きだ』新宿書房、昭和六十一年、「人肌の燗…手白沢温泉」八~一三頁。