西沢金山・奥鬼怒道(湯元~西沢金山~噴泉塔~手白沢) page 3 【廃径】
実際に通行してみた印象は、次の通り。現在の道の状態は、区間による状態の差が非常に激しい。湯元~古峠は現役のハイキングコースである。古峠~刈込湖は約四十年前に廃棄されたハイキングコースだが、一部の笹ヤブ、崩壊地をうまく回避すれば、通行は難しくない。刈込湖~金田峠は約六十年前に廃棄された登山道で、南斜面に密生する激しい笹ヤブのため、先行者の痕跡が弱く慎重なルートファインディングを要する難関である。金田峠~西沢金山は約六十年前に廃棄された登山道・作業道で、一般登山道ではないが造林作業や高薙山登山等である程度の利用があり、マーキングが豊富で歩きやすい。特に金沢左俣~西沢金山町跡は道が良い。ただし車道工事で町内の道が破壊されているので、登りの場合は取り付きが分かり難い。西沢金山~高薙山水平道東端は約五十年前に廃棄された登山道・作業道だが、高薙山登山のバリエーションルートとして多少踏まれており、マーキングも見られるので、さほど難しくはない。高薙山水平道東端~西端も約五十年前に廃棄された登山道・作業道だが、元が鉱山時代の木馬道なので道型が明瞭で歩きやすい。ただし分岐があったり倒木やヤブで不明瞭な箇所が有り、地図読みは必須である。高薙山水平道西端~伐採飯場は約五十年前に廃棄された作業道で、道型は笹でほぼ消えている。ヤブは浅いが、地形特徴を読みながらのトラバースや尾根下降は慎重な地図読みを要する。伐採飯場~湯沢渡渉点は約六十年前に廃棄された登山道で、笹の中に断続的な痕跡が認められる典型的な廃道である。十分廃道馴れしていれば通行可能。湯沢渡渉点~手白沢温泉は十数年前にほぼ廃道状態になった比較的最近まで使われた登山道である。しかし地形特徴が少ない湯沢側は、道がほぼ消滅しマーキングもなく、身体能力的な困難さはないが慎重なルートファインディングを要する。手白峠を越えて手白沢温泉までは手白山登山者のマーキングが多く、廃道としては十分通行可能。それでも地形的にはやや複雑で、比較的最近発生した薙の横断にも注意が必要。
● 湯元~金田峠
湯元温泉の源泉(湯畑)脇から刈込湖への遊歩道を辿る。国道を渡り、左下の樹間に蓼ノ湖を見て古峠までの緩い登り道を、一般向けのハイキングコースで辿った。時に見る古い石段に、古道の面影が感じられた。
古峠(コトウゲ、小峠とも)は巨岩の下にベンチがある火山地形の狭い峠で、湯元から迂回して登ってきた廃車道(三ッ岳林道)を右から合わせた。二、三十米先の道標で、刈込湖へと三ッ岳林道跡を辿るハイキングコースと分かれる廃道化した峠道は、初めの数分だけ道が見えないほど激しい笹ヤブを掻き分けて進み、あとはごく緩い小窪の右岸を細い踏跡となって下った。一瞬だが車道跡のように道が広くなるところがあった。実はこの区間もまた、昭和三十年代の伐採時には搬出用車道であったのだが、もはや明確に車道跡を感じたのはここだけだった。だだっ広い大野ヶ原を薄い痕跡を拾いながら横切った。原の北側に伐採小屋があったそうだが、その跡地は分からず、ただ一つの茶碗の欠片を見るのみだった。原を過ぎて幾分明瞭になったドビン沢左岸の小径を緩く下った。その小径が途絶えた辺りが、かつての車道の終点である[45]。
ここから道は、しばらく倒木で荒れた沢の右岸を通ってまた左岸に戻るようだったが、かなりの部分が流失しており、倒木と岩で埋まったほぼ水のない沢を下った方が早そうだった。道端で古いジュースやビールの空缶を見た。「サントリー・フルーツソーダ」、「サッポロビール」のアルミ缶のデザインは昭和五十年代前半辺りのものだった。峠道が廃れた後も昭和五十年代ごろまでこの道が刈込湖へのハイキングコースとして使われていた名残だろう。すぐ先の小広い場所の山火事注意標識が、現在のハイキングコースに接続する旧刈込湖道の分岐と思われ、ドビン沢を右岸に渡る旧ハイキングコースの気配が感じられた。従って、旧三ッ岳林道経由の現在のハイキングコースが刈込湖に達した地点からこの場所までは湖畔を辿れば容易に達することができるだろう。道は微かな踏跡となって、刈込湖畔の数米上の山腹をトラバースし、北西から来る支沢を渡るところで湖畔の平地に下った。湖畔と言っても森の中の相当奥まった位置であり、水際までは約百米も離れていた。ここまでの区間は倒木が被さり歩き難く、歩かれた形跡も見えないので、適当に湖畔近くを歩く人が多いのかも知れない。森の中の静かな湖畔奥の平地は、若干ゴーロ気味で、踏跡が不明瞭になり、感覚に頼って刈込湖の北端に向かった。
金田峠への登り口は、湖畔の平地が終わるどん詰まりにあった。道型は明瞭なのだが、登り口がちょうど倒木で塞がれているので、初訪では分かり辛い。荒れているが明瞭な道型で、低い笹を小刻みに数回折り返して登り、一六八〇米付近で一段高い笹原に達すると、道型は深い笹に埋もれてしまった。道の在り処は分かるも、密集した笹の一本一本が絡み合い、全く前進できなくなった。本来の道は傾斜が緩んだ笹原を西側の抉れた涸窪に沿って直線的に北上しているようだったが、やむを得ず東寄りの何とか笹ヤブを漕ぎ分けられそうな部分や、数本~数十本の樹木が固まった笹の弱い部分を繋ぎ合わせて進んだ。同様に悪戦苦闘してこの笹原を通過した通行者が残した、笹を踏み分けた僅かな痕跡に助けられた。笹の激しさで正道を放棄したため進むべき方向の判断ができず、ただ通行者の痕跡の付き方や地形を頼りに勘を働かせて進んだ。一七一五米付近のコメツガなど針葉樹の小団地を通るとき、何か道の気配を感じた。具体的な道型や踏跡は見えなくとも、地形や植生から道はここを通るだろう、との勘が働くものである。ふと見ると足元に小さなピンクテープの破片が落ちており、少し先の木には黄テープが巻かれていた。化学製品であるテープが酷く傷んでいたことから、すでに二、三十年を経たものかも知れなかった。付近を捜索すると、尾根上にも関わらず団地の一角から下方の笹原に潜り込む水流跡のような溝状地形があり、位置や方向からして先に放棄した峠道の一端と思われた。
踏跡と見えなくもない痕跡に従うと、それは火山性の壁状の急斜面に当たり、沿うようにトラバースしつつ登り出した。だが痕跡はすぐ笹原で不明になり、以後、縦方向の縞状で次々と現れる笹原と針葉樹のサイクルを、笹原は強引に漕ぎ分け、針葉樹で高度を稼ぎつつ僅かな痕跡を探しながら越えていった。たまに水平なバンドに笹が弱い部分があると、うまく使って東に進んだ。この間、明滅する複数の断続的な痕跡が散見された。樹間に稜線が垣間見えるようになる頃、笹の中で東から西へ登る局所的な痕跡を見た。峠までに二十のジグザグがあったというので[22]、峠道の折り返して登る部分の断片であろうか。果たしてその痕跡は東向きに折り返したところで、すぐ消滅した。稜線が次第に近くなると、断続的ながらも何となく歩きやすい複数の痕跡が、東向きに真っ直ぐ山腹を斜上するようになった。そのまま行くと、低い笹が占める稜線に飛び出した。約二十米ほど東に、古びた石祠が南向きに鎮座していた。一帯だけ森が拓かれ明るいのは、かつての捕鳥場の名残であろう。付近の広がった尾根地形のため刈込湖は見えなかった。
ちなみに、この区間を下ったときに、金田峠から一七一五付近の針葉樹小団地まで、北側に膨らんだルートで笹の一番激しい部分をできるだけ避ける別の踏跡を発見した。峠から緩く下りながら真西に向かい、針葉樹小団地脇の小窪に当たるとその左岸沿いの笹の薄い部分を急下する断続的な踏跡は、恐らく笹の繁茂で峠道が不明になった後の通行者が踏み分けたものであろう。この踏跡にしても不明瞭で特に峠近くはヤブで途切れがちであったが、峠道と無関係にこの区間を通行するなら便利だろう。
● 金田峠~西沢金山(旧道)
栗山分に入った峠道はすぐに谷へ下らず、東へ低くなる稜線の北斜面に絡んで下っていた。一帯は複数の踏跡が分散し、膝から胸の笹が繁茂して、どれが正道が判別し難くなっていた。最も明瞭なものは痩せ気味の稜線上に付いた踏跡だが、峠道は馬道とされるので[20]、一定の幅と斜度を持つと考えられ、稜線の踏跡は登山者が付けたものであろう。二百米ほど進むと、依然として稜線下を絡んで東に向かう踏跡から分かれて、左下に下る道形が見えた。なお直進する新道からの、旧道の分岐である。旧道は明るいダケカンバの林を小刻みな電光型で下っていた。道型は明瞭だが最近踏まれた様子はなく奇異に思って下ると、やや古い赤テープのマーキングを見かけた。道の保存状態の良い部分で観察すると、幅一・八米の牛馬道規格の道だったようだ。所々に見る落下したマーキングテープから数十年使われていないらしく、テープの取り付け方が玄人的なので山仕事の関係者が取り付けたものと思われた。この一帯は王子木材緑化の社有林で、植生図に伐採跡群落を意味する「ダケカンバ群落(III)」と表示され[46]、空中写真でも痕跡が認められ[47,48]、実際に切株が点在することから、昭和三十年前後に伐採が行われたようだ。百年近く前の道型が意外ときれいに残っていたのは、伐採時に道の修復をしたためと想像される。
旧道の明瞭な道型は、電光型に下る最中の一七七五米付近の山腹で突然消滅した。あまりに唐突だったので周囲を調べるも確りした道型は見つからず、北に向かう細い踏跡だけが認められた。作業上、必要な道はここまでであったのだろうか。そこで旧道の痕跡と思われる踏跡を辿ると、それは廃道状態ながらも明確に続いていた。すぐ金沢源頭の細い流れを、沢床が石になった部分で渡った(一七六五米)。笹原、次はモミの森に、不安定な踏跡が辛うじて続いた。一瞬道的な部分を通るも小さな薙を渡る所で消滅した。もはやマーキングは見られなくなっていた。山腹を緩く下る弱い踏跡は、しばらく先の小尾根上でパタッと消えた。探しても水平方向には続きが見つからなかったが、小尾根を下る不明瞭な電光型の痕跡があり、標高差で約二〇米下ると一瞬道型が現れた。その道型は倒木ですぐに消えたが、どうやらそこからまた山腹をトラバースしている雰囲気だった。この一時的な降下は、初版地形図において金沢左岸尾根上で峠道が一時電光型に高度を下げている箇所に対応しているのかも知れない。不明瞭な痕跡はなおも山腹を絡んで少しずつ今度を下げ、一七〇〇米付近で、複雑に分流した湯沢の一六〇〇米圏右岸支沢を続けざまに通過した。付近では踏跡が一段と不明瞭になっていた。樹林帯に入ると踏跡が落ち着き、湯沢本流の水音を耳にした。地形図では湯沢を遠回りのトラバースで渡り、鉱山図では湯沢に下って登り返すという、異なる道筋が示された部分である。実際の踏跡は水平方向には続かず、湯沢目指して小尾根を下っていたので、鉱山図の方が正しいようだった。相変わらず不明瞭な踏跡のため、正確にどこで湯沢を渡ればよいか分からず、カラマツの小尾根を末端まで下ってしまい、一六〇八米で湯沢に降り立った。なおこの湯沢は西沢支流の湯沢であり、後に渡る鬼怒川に注ぐ湯沢とは別の沢である。
湯沢の左岸に微かな痕跡があったので、これが道かとフラっと下ってみた所、一五七〇米付近に十二米の直瀑があり下れなくなった。両岸とも約三十米の切り立った崖で、捲きの余地もまったくなかった。やはり正規ルートではなかったようだ。正道に復帰すべく、山腹を適当に登って湯沢左岸尾根を越え棒日沢の源頭に入った。峠道はその左岸を下っているはずである。水は白濁し沢筋は温泉のような色をしていて、いかにも鉱山的な様相であった。沢の中央は泥沼か底なし沼のように柔らかく、踏むと足が取られ靴が見る見る沈むので、沢筋を歩くのはちょっとした恐怖だった。湯沢に出て以来、そこまで続いたあやふやな踏跡も消え、地形を読んで痕跡すらない山腹を歩いていた。鉱山図[12]では棒日沢の水流沿いでなく左岸の数十米高い山腹に道がついているので、左岸尾根への取り付こうと試みた。一度は容易に左岸山腹に取り付いたが、二本の小さなV字に抉れた左岸支沢を渡るたび、容易に左岸に這い上がれず取り付き可能な場所を探して上下した。ようやく棒日沢左岸尾根の山腹をトラバースし、一六一五米付近で尾根に乗り踏跡を探した。尾根はシャクナゲヤブが煩いため歩き難く、尾根右側斜面の低い笹を下る痕跡が見えたのでそれを追った。切株があるので道もあるかと期待したが、前方は岩稜、右下は急斜面で峠道の痕跡は見当たらなかった。険しい地形に行き詰まり、仕方なく右下へ森林中を一直線に急下し、再び棒日沢に降り立った(一五五〇米)。鉱山図でも丁度この辺りを沢近くまで下るようになっている。沢の両岸は崩れ、沢筋は土石や倒木で酷く荒れて伏流に近い状態になっていた。鉱山図では左岸を行くはずの道は、激しく崩壊して探す余地はなく、沢の下降さえ手間取る状況だった。一五三〇米付近に堰堤が現れ、右岸を巻いて下った。ゴーロ歩きとなって一五一〇米付近で西沢に出合うと、今度は巨大堰堤があった。棒日沢では、鉱山図に近い経路を取ってみたが、沢や山の荒廃のためか道型は全く認められなかった。鉱山図が示す峠道はここからも沢に絡んで下るはずだが、治山工事の大堰堤が連続して沢の状態が大きく変わっているので、辿ることは不可能であろう。
そこで峠道を諦め、今日の踏跡を使って西沢を下った。堰堤の左岸を大高巻きする踏跡を拾うと、高みに登った踏跡は下らずに山腹を水平移動し、粘沢に面した崖上で消滅した。不審に思い探すと、赤白二重テープのマーキングと粘沢へ急下する踏跡とがあった。急下した粘沢は崩礫で埋まって伏流し、およそ二十米幅の河原になっていた。対岸の踏跡はなお水平で、細流の小滝沢を渡り、軽く登って一五一五米の小平地に出たところで不明になった。鉱山操業時の作業道の痕跡が、今来た踏跡とは別に水平に付いていた。下り口を探すと、西沢に向かう微細な尾根地形に踏跡があり、導かれるまま下ると廃車道の終点に出た。西沢の一四六〇米付近の透過型砂防堰堤工事用の道らしい。少し下ると舗装車道となり、Z字に下って西沢橋のたもとに出た。
● 参考:金田峠~西沢金山(新道)
今でも通行容易な新道について記しておく。新道はまだ廃道ではなく荒れた作業道といった感じである。金田峠から金沢左股までの道型はだいぶ薄くなっているがマーキングで何とか通行可能、金沢左股から西沢金山までは一切整備されていないが道自体は悪くない。実際の通行は西沢金山からの登りであったが、旧道記述との対比のため下り方向で記述した。
金田峠で稜線の北側に回り込んだ峠道は、コメツガやダケカンバの混交林の中を幾筋にも分かれた不鮮明なかつ断続的な踏跡となって稜線に絡んで高度を下げた。約二百米進んで左に旧道の明瞭な道型を分け、一八五五米の最低鞍部下で、忠実に稜線を辿る登山者の踏跡を合わせた。ここを稜線方向へ一分行くと、「金田峠」の私設表示板がある最低鞍部に至る。現在は踏跡明瞭な稜線の通行が多いと見られ、ここから点々とマーキングが見られるので、道型は不明瞭ながらルートを追いやすかった。
道型のほぼ消えた山腹をテープを追ってごく緩く下ると、一八〇五米付近で金沢の一五九〇米圏二俣の左股に出合った。しばらく沢に絡んで下る踏跡は、酷く荒廃して確実に分からないほどだが、僅かな道の痕跡と落下したマーキングテープの残骸を見る限り、まず電光型に左岸を下り、約一七七〇米の沢中央のカツラの所で右岸に渡り、二、三の電光型で下っているように見えた。沢沿いは一七六〇米付近で終わり、突然明瞭な道型が現れ、再び緩やかな山腹のトラバースで下るようになった。まるでそこから別の道であるかのように、急に確りした道になるのは不思議だった。理由として思いつくのは、昭和三十年前後の伐採時の作業道としての整備である[47,48]。峠道の新道はここから急に良くなるが、逆に旧道は一七七〇米付近から上だけが明瞭な道型だ。ここから水平に西に出るマーキングの付いた踏跡が見られたので、この標高を水平に両者を結ぶ伐採時の作業道として整備された可能性があるが、水平踏跡を辿ってみたのは数十米先までなので確かは話とはいえない。
牛馬道クラスの広い道は、山腹を緩く下って尾根を回ると、ほぼ平坦なトラバースが続いた。複雑に分枝した沢地形を回り込んでしばらく行くと、また緩く下り出した。道標整備や倒木処理をすれば一般登山道になりそうなほど、道は明瞭で心配はなかった。小尾根を一つ回り、一六五五米でガレてほとんど水のないオログラ沢を右岸支沢が出る所で渡った。オログラ沢に沿って右岸を下り出すと、倒木で激しく荒れた一帯を通過した。道が一時的に途切れても、道型がはっきりしているので迷う心配はなかった。知らずしらずのうち小尾根を越え、ガレた小窪を渡るとすぐに涸沢があり、その左岸を下る町内歩道に出合った。西沢金山町跡の郊外部分である。
涸沢沿いの道を下る間、常に右岸に何かの敷地があり、また鉱山図[12]では左の尾根上にも道が付いている。ここに鉱脈はないはずなので、坑木の貯木場か何かの作業場所であったと推測される。図上に二棟を見る職頭長屋の敷地も、そのどれかであろう。涸沢左岸の道は低い笹が被り道型も薄れていたが、歩き難いというほどではなかった。一四七〇米圏で初めて町の大きな敷地に出た。長辺六十米、短辺三十米の二等辺三角形をした小尾根上の広場である。ここまで来ると、車道を走るバイクの音が煩いほど聞こえた。登り方向の場合、町内歩道が破壊され分かり難くなっているので、この広場が目印になろう。広場の山側の石垣に沿って回り込むと、下り出すかなり薄い道型が見つかった。旧鉱山町の中央通りは車道で完全に潰され、鉱山図で言えば役宅脇を通り倉庫裏斜面を雑貨店上の広場へと登る脇道の痕跡だけが辛うじて残っているが、これもその一つである。整地した石垣だけが残る役宅や事務所脇の敷地を通る植林か何かの作業踏跡を辿って、車道の湯沢右岸の最初のカーブの地点に飛び出した。
[45]国土地理院『空中写真(男体山)CKT763(1976/09/24)』、昭和五十一年、C10B-8。
[46]環境省「男体山」(『1/25,000植生図 自然環境保全基礎調査』)、平成二十三年度修正。
[47]建設省地理調査所『米軍撮影空中写真(1952/10/21)』、昭和二十七年、M10-21-2。
[48]国土地理院『空中写真(日光)KT633YZ(1963/11/04)』、昭和三十八年、C1-30。