西沢金山・奥鬼怒道(湯元~西沢金山~噴泉塔~手白沢) page 5 【廃径】

● 湯沢渡渉点~手白峠

 かつて渡渉点に目印があったらしいが、訪問時点では何もなく、両岸の道は消え、確信を持てるほどの痕跡は見つからなかった。ただ、右岸は噴泉塔上ゴルジュと上流側の支沢とに挟まれた小さな河原と見るのが地形的に自然であり、かつ左岸にはすぐ先で消える薄い踏跡があったことから、そこが渡渉点と判断した。この有るかなしかの踏跡を大事に辿るも、四〇米近く登った所の窪状の底に出来た平坦地で消えてしまった。窪の中と両岸の尾根を偵察したが、道型や踏跡は見当たらなかった。右岸尾根の上に乗ってみると、そこは湯沢を見下ろす三、四十米の垂壁上で、対岸の崖上に約十本の滝が並んで掛かる、奇景が梢越しに垣間見えた。
 渡渉後、文献が「のぞき」[18]とする一四一〇米付近の崖上までは、旧道の残骸らしき細々とした踏跡が認められたが、その先小尾根を辿る部分で消えていた。他を探すと、小窪の左岸尾根側の山腹が比較的歩きやすく、明らかな道の痕跡はないもの明滅する踏み分け跡が認められたので、拾いながら登った。これが営林署図の新道である気がしたが、そうだとしても今やそれが消えかかっていて、明言できるほどではなかった。小尾根に絡んで登る散発的な痕跡は、一四五〇米辺りで尾根や窪の地形自体が曖昧になってくると、消滅した。旧道が通るはずのやや痩せ気味の窪状の右岸尾根だけが、明らかな地形だったので取り付いてみると、微かながら踏まれていた。古い赤テープが落ちていたことからも、間違いなくここを道と分かった。しっかりした踏まれ方から、この一帯だけは新道、旧道の共通部分と思われた。一五〇〇米近くで尾根が一瞬急になり、あるかなしかの踏跡で右から巻き気味に登った。一五一〇米付近の尾根の傾斜が緩んだ辺りで、三十年近く前に販売されていたデザインの、ヤクルトストライカーの空缶を見た。
 少し登るとこの尾根地形も消え、一五三五米付近のほぼ真っ平らな場所に出た。道の痕跡は消え、前方には手白山ののっぺりした山腹が立ちはだかり、行くべき方向が全く分からなくなった。帰宅後、精査して分かったのだが、ここが新道と旧道が再び分かれる地点と考えられた。新道はこの平原を北西に進み、記録によるとすぐ先にも営林署の赤い吸い殻入れがあるという。通行時はそのような詳細情報を持っておらず、地形と痕跡で道を判断し、山腹の緩斜面の微妙に窪的になった部分をほぼ真西に進行した。枯葉が積もって道の痕跡が見えないが、どこでも歩くことができた。一向に高度が上がらぬことに違和感を感じつつも、地形的に最も道らしさがある微かな広い窪状を進んだ。一六〇〇米付近で緩斜面が終わり、目の前は尾根も谷もない単なる斜面になったので、そろそろ右方向に舵を切る時だと直感した。進んでも不明瞭な地形が続き、酷いヤブもない草原でどこでも歩けてしまうせいか、歩いた痕跡は見当たらなかった。ふと見ると偶然、割と新しい青いビニールサンダルが落ちていた。自分と同様、地形判断でここを登ってきた登山者が、湯沢渡渉用に用意したものをうっかり落としたのだろうか。
 一六三五米辺りで前方がそそり立つような傾斜になってきた。地形的には完全にトラバースのムードであった。ありかなしかの痕跡が出てきて、自分を含めこの辺を彷徨っていた登山者が、壁地形に阻まれ自然とそれに沿って登るため、多少踏まれてきたようだ。微小窪を渡る部分は、視認できるほどの痕跡になった。この緩登するうすい踏跡は確かに続いており、次第にほぼ水平になってきた。手白山東面の崖のため、これ以上登れないのだろう。笹が出てきて、落葉を行くより踏跡が多少見えやすくなったが、茂った場所では逆に分かり難く、一長一短だった。一度道を失い上方を捜索したが、急傾斜と巨大な薙に阻まれ退却した。やはり水平に進むのは、急すぎて上に登れないからなのだ。断続的で不明瞭な踏跡だが、ガレを渡るべき地点が分かる点で頼りになる。細く長いガレを渡り、続いてすぐ小さな薙を渡った。大局的にはさきの細ガレと一体であり、上方の巨大な薙の末端のようだ。数十米先にまた別の大ガレに出くわした。斜度がありむき出しの岩にやや緊張したが、歩かれた痕跡もあり厳しいというほどではなかった。渡りながら、ガレ上は見通しが効くので、高薙山~太郎山~女峰山の素晴らしい展望を楽しんだ。このガレの左岸に半ば土砂に埋もれたトラロープが見られたことから、この地点で営林署が整備した新道に戻ったと思われた。
 後日見た最近の通行者の記録によっても確認され、それによると新道はここまで斜めに登ってくることで、先ほど通過したガレを、下部のまだガレていない地点で渡っているようだった。平成二十九年の品川山の会さんかくてん[52]のGPS記録によっても、それが確認された。同年、三峰山岳会も記録を発表した[53]が、それらを含め最近の記録では下降のみに使われており、手白峠から下ってきてトラロープのガレ通過後の道筋に、さほど戸惑った様子は見られなかった。三峰山岳会の記録には、「小さな沢の流れにも土が流されて山道がちょこちょこ崩落」、「足元の決まらないトラバースが続いた」とあり、新道もまた荒廃し不安定な細い踏跡であったことが伺える。一五三五米付近平坦地付近に、今回見なかった今市営林署の吸い殻入れがあるとされ、その直前で旧道に入ってしまったことが分かった。一五三〇米付近平坦地からトラロープのガレまで、正味約三十五分の登りであった。新道の方が距離が短く、悪路だが道筋に迷うことはないようなので、多少早く通過できるのではないか。

 
  

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手白山付近

 
 
  

(出典:国土地理院 基盤地図情報 数値標高モデル 5mメッシュ)

 

 露岩と草地の明瞭な道となり、少し行くと針葉樹林の荒廃が酷いながら明らかな道型になった。邪魔な枝を伐った古い切り口を見ると、かつて手入れされた道だったことが感じられる。だがすぐ先でまた酷いガレが現れ、道が途切れた。唐突な途切れ方と捲きの踏跡がないことから、最近までガレの内部を通れたものと想像された。平成二十六年の二つの記録にも、ガレに酷く手を焼いた旨の記述は見られなかった。現時点では、ガレ内部の通過は滑落リスクが無視できず、下方も激しく抉れて視界が効く範囲では通過困難に見えた。高捲きを決め、ガレに沿って踏跡のないまま登ると、約三〇米上でガレが途切れ、ガレの上縁を通過する何らかの痕跡が見つかった。ツガの森を行く道に戻ると、多少傾斜のついた登りになってきた。三十年ほど前のものに見える太い倒木処理があるなど、何だかんだ言っても針葉樹林に入ると歩きやすかった。道は小尾根に取り付くと多少不明瞭になった。三〇米余り登ったところで、右手の笹の斜面にトラバースする気配を感じた。不明瞭で分散した痕跡を緩登し、七十米も進んだところで尾根の平坦な部分に乗り上げると、ちょうどそこに営林署の赤い吸い殻入れがあった。手白峠と呼ばれる尾根乗越にあるはずの道標が見当たらず困惑したが、腐った意味不明な杭があったのでかつての道標の支柱であろうと判断した。後で何人かのブロガーの方の写真から調べると、五年前には破損していたがまだ行先が読み取れていたようだ。この山域の自然還元力は、なかなかのものだ。今や位置を明示するのは、吸い殻入れだけであった。

 

⌚ฺ  湯沢渡渉点-(20分)-1535M平坦地-(35分)-トラロープのガレ-(35分)-手白峠 [2019.11.4]

● 手白峠~手白沢

 手白峠からの下り出しがいきなり不明瞭、二十米ほど水平に行くと道の残骸らしきが見えた。明滅するその残骸は続いたが、道というほどのものでもなかった。十年ほど前まで一般向けの登山道だったというから、驚くほど荒廃が早い。手白山の尾根から北に出る支尾根を回ると、倒木で荒れた古い道を針葉樹に巻かれたピンクテープや赤リボンを頼りにやや急に下った。もはや道とは言えない薄い踏跡を追うには、テープが無いと苦労しそうだ。北向きの支尾根の約三百米先で、激しい崩壊に出合った。並走する二本の薙は合わせて百米ほどの幅があり、若干傾斜が少ない下捲きを狙った。約三〇米下で薙を横断する痕跡を見た。そこを渡るも抉れた左岸を登れず、薙の中を更に下って脱出、二本目の薙はすぐ渡れた。回避する確りした踏跡がないのは、崩壊が刻々と進行しているためであろうか。対岸の森をやや登り気味に適当に進むと、やがて正道の赤テープが見えた。大して進まぬうちに平らな地形があり、不明瞭な踏跡は、急に右曲し、北向きの支尾根に入った。道自体がだいぶ薄いため、もしテープが無ければ疑問を持ったかも知れない。だがすぐ営林署の赤い吸い殻入れを見たので、安心した。支尾根の傾斜がきつくなる寸前、突然左の谷へと下り始め、緩い窪状を渡ってから、緩い支尾根的な地形を越した。ネットのブログ等の記述から十年前にはこの付近を難なく通過していた様子が伺えるが、火山性の複雑な地形を縫う消えそうな道の判断は、今や地形や草木の具合から何となく探って推測するほどだった。唯一の確実な道標となる営林署の吸い殻入れも、殆ど倒れたままだった今回立て直したが、すぐまた倒れてしまうことだろう。再び吸い殻入れを見てから、左手の緩い窪状地形を見ながらだだっ広く緩い笹の尾根を下るも、地形特徴がなく踏跡も曖昧だった。明大ワンゲルの奥鬼怒山荘(通称手白小屋)が右前方に見えてきた。樹木がナンバリングされた営林署の収穫試験地に入るも、相変わらずの笹原に道と言うほどのものはなかった。ここでは昭和二十四年に大径木の針葉樹を択伐し天然更新を観察しているが[54]、約七〇年が経過した今も、寒冷地のため植生の回復が遅いため伐採跡地の感は拭えない。比較的強めの痕跡に従って尾根の中央付近を真西に下った。沢が近づいてくると尾根は二つに割れ、踏跡はその間に生じた窪状に下り、程なく明大小屋へ至る歩道の途中に飛び出した。
 明大歩道に出る直前も、旧来の歩道と経路が変っているようだ。営林署図では、道は試験林から尾根地形を離れ新助沢に真っ直ぐ下っている。奥鬼怒四湯制作の奥鬼怒温泉郷案内図でも、およそ試験林の位置付近から道は同様に新助沢に下っているので、確かであろう。地元の手白沢温泉作成の地図では、やはり今回通った明大小屋歩道に出る道が書き込まれ、古い営林署図の道が廃道して載っている。現時点では新助沢への下り口部分の道も変っていると見られた。
 明瞭な明大小屋歩道はトラバースしつつ高度を下げ、やがて新助沢に出た。営林署道はここから少し沢を遡上して山腹に取り付くのだろうが、その形跡は認められなかった。手白沢への道が一瞬消えたように見えたが、小屋への通行者があるので、砂利や石の踏まれ方で道の続きが分かる。すなわち左岸に渡り、二、三十米下流の左岸支沢に十数米入った支沢左岸の踏跡に取り付くのである。尾根を回って緩く登ると、手白沢温泉裏の倉庫の隣にある関係車両の駐車場に出た。

 

⌚ฺ  手白峠-(1時間)-新助沢-(10分)-手白沢温泉 [2019.11.4]
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渡渉点右岸の広い河原を見返す
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1400M圏の窪状内部の平坦地
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「のぞき」から見る湯沢右岸の奇景
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窪状左岸尾根に絡む踏跡
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痩せた右岸尾根に移って明瞭な踏跡に
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テープを拾い木の根に結び直した
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尾根が緩むと道は曖昧になる
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約30年前のヤクルトストライカーの空缶
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1535M圏の平地で道が完全に消える
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緩い窪状を行った部分は付替前の古道か
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手白山を捲く辺りで多少踏まれた古道
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トラロープのガレをバンド的な部分で渡る
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ただの目印ほどのトラロープ
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一瞬現れた良道
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針葉樹の森で突然道が途切れる
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その先の新し目の崩壊は高捲いて越える
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まださほど古くない倒木処理の痕跡
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手白峠直下の笹原
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道標が失われた手白峠と赤い吸い殻入れ
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下り出しも不明瞭で探しながら行く
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時々見るピンクテープに頼る荒廃ぶり
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大規模な土砂崩壊を何とか渡る
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不明瞭な道は一時北向き支尾根に入る
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小窪を渡る部分もほぼ消えている
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吸い殻入れがなければ道とは思えない
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幹にナンバーを打った試験林の微かな痕跡
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明大小屋歩道に合流
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新助沢を下りながら渡る

[52]「奥鬼怒川源流の沢山行」(『品川山の会"さんかくてん”山行記録』、http://sankakuten.web.fc2.com/sankou2016xxx44.html)、平成二十九年。
[53]千葉朋子「沢登り・鬼怒川小湯沢~湯沢下降」(『岩つばめ』三五二号、三峰山岳会、頁不明、https://www.mitsumine.gr.jp/kaiho/352/koyuzawa.html)、平成二十九年。
[54]森林総合研究所『収穫試験報告第20号 森林長期モニタリングシステム』、平成八年、「前橋営林局(本所) 手白沢天然林A種収穫試験地」一七~一八頁。