会所越(通称コレイ峠) page 4 【廃径】
● 大橋場~高二八〇図根点北西尾根
右岸は緑豊かながらも明らかな伐採跡だった。古木の切株の間に立つ痩せた二次林に続く、細い踏跡を緩登した。緩やかな斜面では、森が荒れてしまうと道型がはっきりしなかった。大橋場と岩棚向窪との間の釜ヶ沢右岸に、原が扇平、鈴木が大木ノ平と呼んだ平らな場所があるというが、山の端に沿って流れから離れて進む道からは確認できなかった。倒木や小さな崩れに邪魔され明滅する微かな踏跡を、辛うじて追った。
伐木が消えてきれいな広葉樹の森になり、岩棚向窪に沿って南に向かった。しかし窪近くでは、再び伐り荒らし後の痩せた二次林となり、道は不明瞭になって分散・並走した。渡窪部で道は完全に消え、広範囲に捜索して漸く道の続きを見つけた。道型が消えても構わず、一定ペースでごく緩く登りながら窪を回りこむのが正解で、分かってしまえば何のことないが、伐採でガレ気味の窪の荒れた斜面での道筋の特定は至難の業だった。
伐採跡の二次林を行くありや無しやの踏跡は、沢を離れると多少落ち着きを見せ、次第に道型がはっきりするようになった。特に尾根を回る所では見事な道が残っていた。しかし酷いヤブや崩れの度に寸断され、その時は周囲の様子や雰囲気で判断するしかなかった。
タル窪の左岸に入ると、道はほとんど分からなくなり、終には完全に消えてしまった。緩やかな登りのペースを保ってトラバースを続け、酷くガレたタル窪を、上流に僅かな水流が見えちょうど伏流が始まる部分で渡った。窪はそこから幾筋にも分流し、複雑な地形となっていた。伐採跡を行くこの道は、渡窪の度に不明になるようだった。
カラマツ植林の微小尾根を回り、一四九六独標北西尾根を一二六〇米圏小鞍部で回り込んだ。尾根を回る付近だけ道型が見えやすく、その状況は以後通過する数本の小尾根でも同じだった。伐り残された広葉樹の大木が美しい小鞍部には、栄養ドリンクビンや色あせた旧型のスプライト一リットルビンが落ちていた。このビンは昭和五十年代を中心に販売されていたもので、伐採時期と一致するので、当時は作業道として使われていたことが示唆される。
道は次第に傾斜のある一帯に入り、岩壁の基部など地質的に安定の良い場所以外では、あまり道型が見えなくなってきた。もはや馬道らしさの欠片もないただの細道を辿るだけだったが、道の付き方に無駄がなく、上り下りとも勾配が緩い点に馬道の片鱗が感じられた。微かに踏まれた林道は秩父の古林道にも似て、崩れやすく見失いやすい道がどうにか続いていた。
大松右股のガレた源頭でまたもや道は不明になり、探しながら対岸を行くうち、いつの間にか薄い踏跡が回復した。窪を渡る度に、毎回これを繰り返した。次のカラマツ植林では、倒木と枝打ちのため道がほぼ消滅し、勘に頼って水平に進んだ。その先の枝尾根を回るところに、林道工事と関係あるものか、何かの網が落ちていて、一瞬踏跡が甦った。しかしまたすぐ道型は消えるなど安定せず、土砂流出で均された斜面に微かな水平踏跡が明滅していた。大松左股の幅広い窪状は礫で埋まったガレた斜面で、道は全く不明になったが、なおも緩い登りが続いているようだった。たまに礫が切れたところで道の気配が感じられた。
そのうち踏跡が全く見えなくなり、目の前に露岩帯を纏った弓流・大松中間尾根が立ちはだかった。それを登って越える極めて薄い痕跡が現れたが、行ってみると岩を越えた所で不明瞭になったので、伐採での作業踏跡だったようだ。露岩帯の下を探すと、荒れ気味ながらも岩壁に保護された明瞭な道型が見つかり、それは先ほど踏跡を失った地点に続いていたので、水平に通過するべきだったことが分かった。弓流源流部の微流の小窪を通るとき、二個の朽ちた五ガロン缶を見た。尾根を回るときは何とか見えた道型は、窪の通過で細まり、崩礫のため消えているところもあった。標高約一三一〇米、道の傾斜が緩いのでその場では意識しなかったが、後日見たGPSログは大橋場から登ってきた道がここから緩い下りに転じることを示していた。
ここから先、儚い踏跡さえ消える部分が多くなってきた。一度消えた踏跡は、小尾根を越えた魚留窪源頭の荒れたカラマツ植林でうっすらと再生した。ピンクテープの付いた折れ枝、錆びた五ガロン缶などを見て進んだ。隣のカラマツ植林内は荒廃が酷く、伐採と植林で道が完全に消滅した。直後に、ほんの小さな枝尾根にしか見えないブンキガ小屋ノ頭の北西尾根を回った。
微かに道型と踏跡が回復したが、長岩窪源頭に入るとまた不明瞭になり、林道から落ちてきたらしい緑の網や五ガロン缶の廃物を見ながら、踏跡を探しつつ進んだ。しかし緩い窪状に入ると踏跡は複線化し、消えてしまった。探すと、急登する微かな踏跡があり、念のため辿ってみたが、車道が猛烈に近づいてきて踏跡は消えてしまった。明らかに峠道ではないようだった。この車道は地形図にまだ収載されていないが、ブンキガ小屋ノ頭から品塩山近くへと尾根の西側山腹に刻まれたものである。なお昭和四十一年版での訂正前の古い地形図は、この辺で峠道が品塩山の稜線を東に超えているが、それは間違いである。
そこで前方の岩壁の下方に行ってみると、一二四〇米付近の岩棚の基部をトラバースする明瞭な道型と、久々に見る、立木に巻いた色褪せたテープが見られた。念のため自らも白テープを巻き足した。前後は確かな痕跡すらないのに、硬い岩盤に守られこの部分だけ道型が残っていた。
長岩窪源頭の地形図に見えない微小尾根を二つ回った。斜面では崩土のため道型はほぼ消えていたが、僅かに下り気味であることが気配から感じられた。枝尾根を回る瞬間だけ微かな踏跡が認められ、立木の幹の消え掛けた赤ペンキがルートの正しさを示唆していた。主尾根である高二八〇図根点(物引沢源頭一三六〇米圏峰)南西尾根(物引沢・長岩窪中間尾根)上でも薄い踏跡が現れたが、途中では一切踏跡が見えず、ただ何となく気配を感じながら緩く下った。踏跡はなくとも、地面の石、枝、微妙な窪み、周囲の地形が、かつてそこにあった道の存在をそれとなく仄めかしているのである。高二八〇図根点に突き上げる物引沢右股の源頭は、礫と土砂ですっかり均された二次林だった。落ちていた複数の金属製の廃物は、上の車道から落ちて来た資材と思われた。浸食の強さを物語る二本の抉れたガリーを注意して渡った。もはや道を失ったも同然だった。
高二八〇図根点北西尾根(物引沢右股左股中間尾根)に差し掛かった。傾斜が強いこの小尾根では、これまでと違い尾根を回る部分にも道の痕跡は認められず、幾本かの微かな踏跡が垂直方向に分布し、道はやや下り気味にこの小尾根を回りこんでいることが感じられた。小尾根上に何ヶ所もあった赤ペンキの付いた立木は、この小尾根の薄い踏跡が作業時の通路であったことを示すのみで、峠道が横切る地点を特定してはくれなかった。
⌚ฺ 大橋場-(1時間40分)-高二八〇図根点北西尾根 [2016.9.25]
【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)
- 中之沢または本谷から車道(中之沢林道、同支線)を辿り、高二八〇図根点(物引沢源頭一三六〇米圏峰)南鞍部付近から適当に下降
- 中之沢または本谷から車道(中之沢林道、同支線)を辿り、高二八〇図根点(物引沢源頭一三六〇米圏峰)北東尾根の踏跡を下降