前橋街道(草津峠) page 3 【廃径】
● 硯川~横手山分岐(一般登山道区間)
一般登山道の区間だが、参考程度に簡単に述べておく。この区間の大部分は草津峠下の寒沢堰トンネル改修の再使用された作業林道跡である。本来の前橋街道は、横手山スキー場第一リフト脇のゲレンデ境界フェンスから深い笹ヤブを進んでいたはずだが、フェンスがあることに加え、特徴ない地形のため道の位置すら特定できない状態のため、国道二九二号の硯川・陽坂中間付近で分岐する作業林道から取り付くことになる。地元では管理放棄状態にあって道標もないため入口を判別しにくいが、横手山第一リフト(横手山スキー場の一番下のリフト)の起点と終点の真ん中あたりで国道から北東に分岐する林道がそれである。この林道は平成初期の草津峠下通水路整備に使われた作業車道跡であり、本来なら車が通れる規格だが路面荒廃で通行できなくなっていた。
道は二、三十米先でスキー場整備により消滅するが、スキー場を横断すると反対側に続いていた。スキー場を過ぎて六、七十米先の左側に分岐のような痕跡があり、ここで左から来る前橋街道と合流するものと想像するが、背丈を越す笹の海で全く分からなくなっていた。流れた雨水で抉られた林道跡を緩く登った。急カーブでは路面保護用の舗装が残っていた。右の森林中に寒沢堰の水音が強く聞こえてくると、ほどなく林道跡が終わった。草に半ば隠れた朽ちかけた道標があって、右は寒沢堰の草津峠下トンネル信州口の作業現場跡へ続く草に埋もれた作業林道の痕跡、左が登山道すなわち前橋街道である。百数十米先の分岐で左に鉢山への登山道を分けたが、そこの道標に誰かが草津峠と落書きしてあった。当然ここは峠ではない。そこから笹のトンネル状の横手山への登山道となる。古い街道が手付かず、というより放置された結果面影を残す数少ない区間である。これを約二百五十米行くと、突然深い笹薮の中で「草津峠」の由緒を記した大きな看板が現れた。単に草津峠という場所を説明した表示であってここはまだ草津峠ではない。横手山登山道を右に分け、前橋街道は左へカーブして峠へと向かうが、直進する横手山方向がよく目立ち左へ折れる街道は笹に埋もれ気をつけないと見落とすほどになっていた。分岐にはピンクテープと切れたトラロープが下がっていた。
⌚ฺ 国道292号からの作業林道跡分岐-(40分)-鉢山分岐-(5分)-横手山分岐 [2024.5.30]
● 横手山分岐~草津峠~横手裏ノ沢
身を屈めて笹のトンネルを約三十米の間潜り進むと、街道の最高点である一九五三米の草津峠を越えた。道標等の目印は全く無く、日本海側から太平洋側に分水嶺を越える地点なので登り道が下り始めることでそれと分かった。右側に笹の小さな切り開きがあり、以前は遭難者搬送用ボートらしい道具がブルーシートを被せて吊り下げた状態で保管されていたが、最近見た時は移動され無くなって目印の紅白ポールだけになっていた。分岐から峠までの僅かな区間は、登山者の迷い込みや興味本位の侵入者を防ぐためわざと悪路のままにしているようだった。
草津峠からほんの少しの間、街道を流用して整備された中電歩道を歩く。正面に横手山を見て立派な笹の切り開きをごく緩く下りながら五十米ばかり進むと、左の笹が消えて湯ノ花沢源頭の崖状になりガラン谷がよく見渡せる地点になった。ここが中電歩道が前橋街道から離れる地点である。傾斜が急になって沢を下降し始める中電歩道を左に分け、街道はここからほぼ水平に続くのだが、中電歩道整備のさい定期的に両脇の笹を壁のようにきれいに刈り揃えるため、街道の入口が全く分からなくなっていた。だから、笹の中の一本道の途中で突然右の笹薮に突入する格好になる。とにかく左側の笹が切れたガラン谷の見晴らしが良い地点に出たら、右側の笹ヤブを薄いところから突破すればよく、すると僅か二、三米先にヤブが切れた小空間があった。たまたま過去に起きた崩れで道が消え、またそのため笹が薄くなった場所であろう。この先の前橋街道は牛馬道規格(約一・八米)の道型がかなりよく残っているが、道を覆う激しい笹ヤブが連続する核心部である。道はあれども絶望的なほど前進が困難な箇所が幾度も出現する。
この小さなガレ地跡から道型を見つけたので進もうとするが、いきなり高密度で密生したチシマザサで物理的に全く前進できなかった。チシマザサは俗にネマガリダケと呼ばれる直径一センチほどの幹の非常に硬い笹で、灌木の枝と大差ないほどだ。これがぎっしり生えそろうと、本当に全く前進できないのである。この枝のような幹を一本ずつ丁寧に解し、踏みつけ、ずらし、潜って越えて行くのである。密生部では掻き分けられる程度の密度でないので、まとめて踏み倒し山を登るかのように乗り越え、真横に倒れ込んだ多数の幹の下に三十センチくらいの隙間があればヘビのように這って進んだ。そのうちチシマザサの密ヤブにチマキザサ(スズタケやクマザサに似た品種)が混ざってきたが、これは一長一短であった。チシマザサだけなら、僅かな隙間から道が続く方向が何とか垣間見えるので道型が続く方向が分かり、その方向に力づくで押し込んだり捻じ曲げたりの対応ができるが、細いチマキザサが綿のように掴みどころなく密生すると前方が壁のようになって視界が完全に塞がれ進む方向が分からなくなってしまう。ホワイトアウトならぬササアウトとなり、その場合は完全な水平を保つことで道を外れぬようにするしかなかった。
こうして笹がぎっしり詰まった空間をひたすら藻掻いても、前進している実感は全くなかった。湯ノ花沢の支流の一つを通ったところで、一瞬笹が切れ周囲が見えた。前橋街道の廃道部に足を踏み入れてから初めて見る笹以外の視界であり、ササの暗い穴ぐらからようやく明るい屋外に出ることができた。ここまでの約百四十米に四十分を要し、先が思いやられた。
廃道部の猛ヤブをしばらく歩いて気がついたが、北斜面になるとササの生育が多少悪くヤブが薄くなる傾向があった。ここからしばらくは北面の道となり、ヤブを掻き分けながらとはいえ初めての立ったまま歩ける区間であった。道型もしっかりして普通の廃道程度の気分で快適に歩いた。彦兵衛山から北東に出る大尾根に掛かるとまたチシマザサが濃くなり始めるも、まだ丁寧にかわしながらゆっくり進むことができた。小鳥がヤブの隙間を縫って自由自在に飛び回るのが羨ましかった。斜面が緩んでくるとチシマザサの激しいヤブが復活し全く前進できなくなった。緩斜面では北向きも南向きも関係なく陽光が差し込むからであろう。この道の歩行時間には、途方に暮れて立ち尽くす時間、どう突破できるか考える時間など、通常は必要ない時間も含まれているので、距離の割に所要時間が異常に多く掛かっている。尾根を回り込み南東斜面に入るとさらに酷いチシマザサ帯が続き、疲れ果て無力感に襲われてきた。前は笹壁というより竹繊維で編んだ壁という感じで力での突破は不可能であった。しばらく試行錯誤した末、その壁を捲くことにした。当然捲きも全く容易でなく、チシマザサの間隙を縫って数分掛けて上に登れそうな場所へ移動し、そこから笹の隙間を這い上がって数米の高度を稼ぎ、次には重力頼みでチシマザサの網の中を転げ落ちて、ようやく壁の向こうの道の上に落ち込んだ。本当に少しずつ進むうち、ついに小沢が近づきヤブが薄くなってきた。この猛烈なヤブの一帯は約百三十米進むのに二十八分かかった。
十六番沢(仮称)の微流を一九四八米二股の直下で渡った。名も無い沢が多いので、ここでは中電歩道に表示された寒沢堰の取水口番号により仮称することにする。十六番沢から北斜面の薄ヤブを三分行くと、一瞬だが不思議なくなら全くササのないきれいな道になった。その素晴らしい例外区間以外もしばらくは全般に笹薮が薄く、軽く掻き分けて進むことができた。次の彦兵衛山東北東尾根でまた笹ヤブが勢いを増すも、丁寧に押し分けて進むことができた。シラビソ樹下の日当たりが悪い部分に、スポット的にヤブが消え道が見える所がありホッとした。次第に聞こえてきた沢音は横手裏ノ沢本流だろうか、まだ少し距離はあるはずだが励みになった。またチシマザサとミヤコザザの混成した笹壁が現れた。とにかく繊維を一本ずつ外すように、またはトンネルを掘り進む感じで、数センチ単位で前進した。二、三米の壁に穴を開け通過するのに数分は掛っただろう。街道の平坦な路面に上の斜面から被さった笹束の繊維が横向きの層状に積もっていて、その隙間を探して捲くように突破するゲームをしているような状況だった。道の部分は幅一、二米の平らな土地になっているため上から落ちてきたササが積もりやすいため難渋し、ここまでの密藪ではむしろ笹が積もりにくい斜面を捲く方がまだマシだったが、それではただのヤブコギになり廃道歩きでなくなるうえ密ヤブで道を失う恐れもあり、基本的に道を外れぬよう進んだ。この一帯の激しいヤブを抜けるのに、約二十五米で二十四分を要した。
十五番沢(仮称)は抉れて街道を削り取り、一時的に道型が消滅した。右岸に取り付くと道が復活し、しばらく東向きのチシマザサのやや多い道を何とか掻き分けながら進んだ。この区間は南向き斜面がなかったので、一度だけ激しいヤブを高捲きしたが、それ以外は辛うじて道を進むことができた。十四番沢(仮称)を通過した。歩いているともヤブを潜っているとも取れない微妙な歩行が続いたが、ともかく以前のように全く進めない状況には出会わなくなった。
二〇六八独標の南から出る十三番沢(仮称)は、幅三米ほどの立派な涸沢だった。沢が大きく谷を削って、長い年月の間に流路を変えているのだろうか、曲がりくねった沢に地形図に載らない小窪が入り、広い谷筋はちょっとした平地になっていた。そこにチマキザサが繁茂し、いったん沢で消えた跡の道型の右岸側の続きが確認できなくなった。ここまでの道筋は斜面を等高に辿ることで何とか見つけられたが、地形が平坦になってしまうと全く分からなくなってしまう。じゅうたん爆撃的な捜索で、ついに脱脂綿のように密生したチマキザサの中に道跡らしい痕跡の連続を発見した。ほんの三十米ほど進むと、横手裏ノ沢本流(十二番沢)であった。前橋街道が通過する辺りでは二つの沢は接近していて、ほぼ同じ谷の中にあるとも言える。横手裏ノ沢は前橋街道が渡る最大の沢であり道は完全に洗い流され消えていた。抉れた沢筋に落ちるように下ると、残雪期に渡沢に苦労したときの豊かな流れはなく、楽に渡れるほどの水量だった。渡沢点は一九三三米であった。沢の下流を見ると何か見覚えがある高いシラビソが見えた。この流れを下ると中電歩道までは直線距離で約六十米なのである。そのシラビソはかつて中電歩道を歩いたとき、横手裏ノ沢を渡る地点で見たものであった。なお中電歩道のその地点に、志賀高原地区山岳遭難防止対策協会の「旧草津街道」(前橋街道の通称)の表示を見たが、それは誤りだ。両者はかなり接近しているが、この部分では独立した別の道として存在していた。

⌚ฺ 横手山分岐-(15分)-草津峠-(1時間25分)-16番沢-(55分)-15番沢-(25分)-横手裏ノ沢 [2024.10.22]
● 横手裏ノ沢~草沢本流右岸尾根
深く抉れた沢から右岸段上に登り返し、取り敢えず深いチマキザサヤブに道の続きを探り当てた。沢からこの位置を見つけるのは容易でなく、後日のため二十米ほど下流の右岸の小さなガレに白テープを二つ打っておいた。初回訪問時はここで力尽き、続きを次回に託したためである。白テープの小ガレを数米登ると笹ヤブが切れて道型が現れる部分にちょうど出ることができる。たちまち先が見通せない壁のような密ヤブとなった。幸運にも街道の続きを探るその二度目の訪問の数日前に降雪があった。雪は密生した笹ヤブの中まで入り込み、平らに均された街道の上を白く染めていた。道の方向も分からない密ヤブの中で幹の間に仄かに続く白いラインを追うことができた。ちなみに残雪時は道に関係なく地形や日当たりに応じて雪が残るので、この方法が役立つのは初冬だけである。ただ積雪量が僅かだったので、溶け残った箇所でしか効果は得られなかった。雪の助けもあってか、距離三十米の激しいヤブ区間を十七分で抜けることができた。この辺りはチマキザサが主でチシマザサが少ないため、硬いチシマザサを柔らかいチマキザサで包んで束ね踏み込めば、少しずつだが越えることができた。そのヤブが多少薄くなり、何とか立ったまま歩けるようになってきた。道が崖となって崩れた部分が現れ、短区間ながら密藪の崖のトラバースは歩き難かった。普通の廃道程度に調子よく歩ける北斜面の部分を過ぎると、小さな(仮称)十一番沢を渡った。北西斜面で再び激しい笹ヤブになったが、チマキザサの割合が高かったので思ったより効率的に進めた。斜面が北向きになると、笹がやや低くなり頭がヤブの上に出ることが多くなり、多少道を歩いている感触を得られるようになった。時々チシマザサが現れたが、潜ったり押し分けたりしてかわした。(仮称)十番沢を過ぎると西斜面になり、これまで以上にチシマザサの密度が低く、頑張って押し分けてゆっくり進むことが出来た。この辺りは森林が発達していて多少の遮光作用があったためかも知れない。尾根状を回り込むと森を抜けて笹の海に突入した。密生したチシマザサに手を焼きこの五十米を抜けるのに十二分を費やしたが、草津峠付近より多少マシになってきた感じはあった。崖状地形の通過時に道は流され消えていたが、笹が低く見晴らしが良かった。一般的な笹ヤブ漕ぎ程度の歩きやすい部分のあと、さらに通常の廃道程度にヤブが薄い部分を歩いた。冬期の雪圧が相当強いと見え、笹が横向きに生えた箇所があった。数日前の印程度の新雪のためとは思われず、夏の間ずっと横向きになっていたようだ。再びチシマザサが勢力を強めてきたが、束ねては越え、押しわけ、掻き分けつつ、辛うじて牛歩を重ねることができた。
草沢はガラン谷の支流の中では比較的大きな沢で、寒沢堰や草津町水道の重要な水源の一つになっている。そのため谷の浸食が強く、本流が近づくに連れ次第に山腹が削られた急斜面になってきた。なお地形図にはちょっとした不備があり、水線が記入されている方が草沢の支流、そして一九一三、一九九八独標の東脇を通る水線のない谷が本流である。街道は、深笹に加え急斜面による路面の崩壊や倒木が加わりかなり不明瞭になった。笹はちょうど顔が出るくらいの高さで、見渡して道がありそうなやや凹んだ部分を追って水平に進んだ。足元をしっかり探りながら、崩壊に嵌まったり倒木に躓いたりせぬよう注意深く進んだ。寒沢堰上の中電歩道との高度差はだいぶ詰まって一〇米もないはずだが、激しい笹ヤブで気配も感じられなかった。中電歩道が草沢本流を渡る9番取水口の恐らくちょうど真上あたりで、崩壊が連続して道型が完全に消滅した。こうなると猛烈なチマキザサの斜面を、水平を保ったまま泳ぐようにトラバースするしかなかった。とはいえ倒木や立木を避けるうちにどうしても一、二米は上下するから、正道を保っているか失ったかの判断すらつかなくなった。この連続崩壊で道型が完全に消滅した地点の右上、笹の隙間から見えるくらいの位置に高さ十数米、幅十米くらいの小崩壊があった。ここだけ地面が剥き出しになっているからよく目立ち、何の宛てもない笹海の中の貴重なランドマークであった。この小崩壊下部に二、三米登って出てみてから、その分の笹を下ると、足で探ってみて笹の中に道型の残骸を感じた。道の続き具合は笹の生え方や足元の感触で判断し、その感触を繋いで進んだ。先ほどの小崩壊より低い笹がだいぶ生え地肌が見えなくなった別の小崩壊跡を通過すると、笹ヤブに灌木が混じリ出し速度が極端に落ちた。木が生えてしまうと道型は全く判断不能となり、斜面に足を取られてストンと落ちて止まったところが笹に隠れた平坦な路面だったりすることもあった。そもそもの急斜面であって、水平に進むのにも一苦労である。笹ヤブは頭上に達し、チマキザサに混じったチシマザサと灌木のカオスと格闘しながら、スポット的に残る道型を見つけて水平に繋いだ。
この格闘も、草沢本流が街道の高さまで高度を上げて来ると終わりを迎えた。草沢本流は左岸に僅かの緩傾斜の土地があって、恐らくそこは崩壊の影響を免れたためであろう、十米ほどの短い区間だけ笹の勢力が弱く道型が残っているのが見えた。これがなければ草沢流域の渡沢点はもちろん街道の存在すら確認できない状況であり、貴重なポイントであった。位置としては、草沢本流左岸の沢から一段上がった一九三七米の地点である。先のランドマークの小崩壊からここまで約九十米に十四分を要した。そのまま平らな地形を真っすぐ沢の方に向かうと、道型はたちまち笹の中に消え、一九三五米で草沢本流を渡った。渡沢点として何か目印があるわけでないが、道型が残った地点からすぐ先のこの地点に、自然石が足を濡らさず沢を渡れるよう都合よく配置されていて、また下流側は牛馬を渡すのに苦労する抉れた地形であるため、恐らく街道はここを渡っていたと考えられる。
渡沢点の右岸は歩きやすい平坦な地形だったが、森林中であるため笹の生育が制限され腰程度チマキザサの海となっていた。道を探してあちこち歩いてみると、人か動物か分からないが歩いた痕跡が多数見つかったものの、街道と確信できる明確な道型は見つけることが出来なかった。広い笹原なので捜索が及ばなかったためかも知れない。その位置の標高は一九三七米だが、この辺りでは中電歩道が一九二七米を通っていて、そこまで緩い笹の斜面を下る幾つかの痕跡が付いていた。辿ってみると途中で二、三の街道にも見える一米幅の中電歩道と並行する溝のようなものがあった。適当に踏跡を繋いで中電歩道に出てみると、歩道の下側にも並走する街道跡のような溝状のものが見られた。複数の街道跡が並走するとはおかしな話であり、ひょっとすると明治時代の寒沢堰掘削時の残骸、すなわち掘削位置が不適切で廃棄された工事跡なのだろうか。今回は笹原の踏跡のような痕跡を約一〇米下って寒沢堰上を行く中電歩道に合流した。中電歩道が9番取水口で草沢本流を右岸に渡って約百米進んだ位置である。だがここで前橋街道が急に一〇米も高度を下げるのは、不自然な感がある。取り敢えず、この先しばらくは中電歩道を辿ることとしたが、機会を見てこの辺りをまた歩いてみたい。
⌚ฺ 横手裏ノ沢-(40分)-11番沢-(10分)-10番沢-(1時間5分)-草沢本流-(8分)-草沢本流右岸中電歩道 [2024.10.22, 2024.11.12]
● 草沢本流右岸尾根~中電歩道2番・3番取水口間微小窪
この区間は整備された中電歩道を辿るだけの気楽な行程である。水路工事の残骸か分からぬ溝状がしばらく並走したあと、草沢支流の崖をトラバースする部分に掛かった。崖を行く道は削られ、工場の配管のような用水を渡す四、五百ミリ径の鋼製送水管が設置されていた。
数分先で唐突に左に下る立派な作業道の分岐があり、同時に右からもマーキングされた急な踏跡が下ってきた。左は草津町第11水源に至る草津町水源巡視道である。最短経路で付けられたこの道は三十五~四十度の信じられないような急勾配で草沢水源付近の基幹巡視道へ下っていくものだ。この巡視道は約二十米先で、はるな墜落地脇の慰霊碑に至る立派な遊歩道を分ける。墜落現場は真っ直ぐ巡視道を少し下ったすぐ右側に見える。巡視道と慰霊碑の中間地点である。また中電歩道に右から下ってくる踏跡が、群馬県が建設中の慰霊碑参拝道である。それが完成するとここも開けた場所になるのだろう。この記事の執筆時点で二〇二五年七月完成予定とされるも、難工事で幾度か延期されているらしく、予定通り開通するかは不透明だ。幾つもの草沢支流を跨ぐたび小規模な取水口があった。草沢支流の一つ、6番取水口では、ほとんど取水せずにそのまま下に流していた。強すぎる水流で水路が損壊しないようわざと取水口を閉じているとも思えた。その先の斜面崩壊で水路が崩れており、蛇腹状の塩ビ管で補修した比較的新しい工事の跡があった。急斜面では鋼管を架けて水路を渡したり、石積で補強されたりしていた。崩れた斜面の鋼管設置部では巡視道も消えていて、送水管沿いを通過した。管に沿って何となく歩かれた感じがあって危ないわけではない。このように水路は数か所で導水管に置き換えられていることからして、水路の維持に苦労が耐えないことが分かる。4番取水口の小窪は、見事なスラブ斜滝で落ちていた。
窪とも言えぬほど小さな2番取水口の表示を見たとき、取水口の直下を緩く下る痕跡が見えた。これが中電歩道から分岐した前橋街道である。少し戻った取水口番号のない微小窪付近(すなわち2番・3番取水口間微小窪)が分岐点のようだった。その地点の直前まで、街道は水路と重なっていたか近くを並走していたかは不明である。ただ草沢源頭は水路ですら崩壊して導水管で通すほどの急傾斜であるため、もしかつては別の道があったとしても痕跡すら残っていないかも知れない。
寒沢堰の下方に分岐した前橋街道は、ただでさえ荒廃し草に埋もれているのに加え、2番取水口の小窪で道が流されほぼ分からなくなっていた。2番取水口の写真では「2」と標した立木の下を街道跡が通過しているが、見た目ではほぼ識別不能であり分岐点は実質的に消滅しているとも言えた。その数十米先が寒沢堰の起点であり、中電歩道の終点でもある。中電水路と直下の前橋街道を接続する明瞭な踏跡がなかったことから、近年前橋街道を歩いたごく稀な通行者は、前橋街道に気がついた時点で中電歩道から適当に下って前橋街道に乗り換えているものと思われた。寒沢堰の起点である1番取水口をほんの一分の寄道で見てくることとした。標高一九三〇米の深い森に覆われた山腹に湧き出す清水が水源であった。古く読めない木の看板や、木板に「S61.33?沢?」、アクリル板に「H1.7.7竹原区役員一同」(竹原は夜間瀬川右岸、湯田中の下流側)、石標に「H7.7.6一本木区」(竹原の南東隣)など、昭和から平成にかけての八ヶ郷の点検標が「1」と記した取水口番表示とともに並んでいた。途切れた中電歩道の終点で周囲を調べるとしても、数米下を走る前橋街道を見つけるのは難しくないだろう。
⌚ฺ 草沢本流右岸中電歩道-(7分)-草津町第11水源・はるな慰霊碑分岐-(20分)-中電歩道2番・3番取水口間微小窪 [2024.5.30]














































































