金峰山東口参道(杣口~御室小屋) page 2 【廃径】

 東口参道は、中世に杣口金桜神社が衰え、信州に跨がる武田領が解体され朝日峠越えの信州往還が不要になって以降、地元の参拝者や山仕事でしか使われなくなったものと思われる。それ以後の時代の参道を思わせる痕跡は極めて少なく、杣口の文化四年(一八〇八)の石灯籠に刻まれた「金峰山是より五里」、山深い石祠峠の金峰山を意識して祀られたと見られる文化八年(一八一二)の石祠などが[5]、僅かに見られる程度である。地元以外では伝説であるかのように忘れられていたこの道に、原全教は昭和十年、著書「奥秩父・続編」の中で再び脚光を当てた[4]。しかし原も、当時開設されたばかりの森林軌道沿いに歩いており、東口参道については信州往還と重複する柳平から石祠峠の区間を歩いたに留まる。原が「新径」と呼んだ、森林開発のための軌道経由のルートは、荒川渡河点付近の有人の伐採小屋を厚意で利用させてもらえることから、御室小屋の荒廃と相まって、金峰登山者を「新径」に惹きつけることとなった。杣口までバスが入るようになると、御岳までしかバスが利用できない表口に対し、道がよく歩行時間が短い東口の優位が明確になった。さらに軌道が大弛峠付近まで伸延されると、御室小屋からの表参道を通らず、急坂の少ない大弛峠経由が使われるようになった。
 しかし新径を含めた東口参道の賑わいも、増富、さらには川端下へバスが入り、最短距離での金峰登山が可能になると、急速に廃れた。登山ルートとして現在のような賑わいを取り戻したのは、平成十七年に川上牧丘林道の舗装路への改修が完了し、アコウ平登山口の利用が容易になった以降であろう。

● 杣口~柳平

 杣口集落の中央を貫く金峰山東口参道がバス通りでもある県道を横切る地点に、遠目にも分かる杣口金桜神社の大鳥居があるので、ここを出発点としよう。参道はやっと車が通れるくらいの舗装道のまま集落内を縫って進むが、すぐに家が途切れ、左が杣口浄水場になった。その辺りから道の脇に古い石仏や石灯籠が現れ、多少参道らしくなった。四百米ほどで浄水場が終わると、道は杣口上バス停前で再び県道を横切り、そのまま鳥居をくぐって金桜神社に入ってしまう。東口参道は数米幅の道路建設に伴い潰されたと見られるので、やむを得ず約一粁の間、琴川右岸の県道を歩いた。柳平を経て大弛峠へ至る立派な車道で、シーズン中は車の往来が多い。
 道が大きく右にカーブを切りながら橋をかけて琴川を渡る地点で、そのまま琴川右岸を行く細い舗装道路が分かれている。これが森林軌道跡の東口参道である[5]。数ヶ所の車道分岐を見送りつつ、うねうね曲がりながら琴川を遡り、琴川第二発電所先の三合橋で左岸に渡る。橋の手前のゲートから先は、一般車両が入れない。舗装車道は、琴川第三発電所前の一二七五米地点で終わった。ここまでは細いながらもダム管理のためよく整備された車道であった。

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琴川第三発電所~鳥居峠(出典:国土地理院 基盤地図情報5m標高)

 

 この先、車道は琴川を離れ左岸支沢の余沢(鳥居沢とも)の左岸に沿って、もう少し堰堤工事用の車道が続いていた。だが工事終了後放置され、歩道としてようやく歩ける程度にまで猛烈に荒れていた。車道跡は三基目の堰堤を過ぎた一三二〇米地点で終わったが、なお左岸に踏跡が続いていた。この先も堰堤が続き、その工事と上方を通る県道219号(旧杣口林道)工事のため、沢も山腹も著しく荒れていた。そのため以前の参道がどこをどのように通っていたか、全く分からなくなっていた。とりあえず堰堤建設用と思われる左岸の作業踏跡を辿ったが、これとて倒木や土砂に埋もれ追うのがやっとだった。さらに二基の堰堤を見ると植林地に入り、落ち着いた作業道になった。沢が一八〇度近く大きく右に曲がる辺りで鳥居峠下に達した。古い堰堤か何かの遺跡を見るとやがて道が消え、そこで余沢を渡渉した。一四三〇米付近である。
 右岸は石が多く踏跡が不明瞭だが、数米登ると、鳥居峠近くへと上がる目の前の小尾根の左へ逸れていく小さな踏跡が目に入った。消えそうな踏跡は山腹で少しずつ高度を上げ、小崩壊をやり過ごすと、鳥居峠の真下に達した。そこで道らしいものは消えてしまった。上にある「鳥居峠広場」という小さな観光用の展望台の造成工事の影響で埋まってしまったのかも知れない。その「鳥居峠広場」へ強引に登る踏跡があり、それを利用して這い上がった。鳥居峠広場は、現在の県道が大丸戸尾根を越える地点から分岐する脇道を南に約百米の地点であり、県道からの分岐に鳥居峠の表示がある。県道はもともと杣口林道として建設された道で、杣口、柳平の両側から伸延された。柳平からの北側の道路工事が大丸戸尾根を越えたのは昭和四十五年前後と見られ、それに伴い「鳥居峠」なる地点が発生したのであり、古来の鳥居峠と同じものとは限らない。何しろ参道が尾根を越えるこの鞍部は百数十米の幅があり、また付近は人工的な地形になっていて、歩道も砂防工事やダム建設で付け替えられているかも知れず、鳥居峠の位置は全く分からなくなっていた。だが車道建設前に大丸戸尾根を登った北村峯夫は、鳥居峠で「壊れかけた金峰参路の第二の鳥居」を見たという[19]。金峰山東口参道の鳥居の宗教的な意義を考えれば、御神体である五丈岩を遥拝するためのものである可能性もあり、仮にそうであればそこから金峰山を望める必要がある。杣口から登ってきて初めて金峰山が見えるのは「鳥居峠広場」の位置であり、車道の鳥居峠からは見えない。従って、本来の鳥居峠は現在の「鳥居峠広場」の辺りと考えられ、その付近で参道は大丸戸尾根を越えていたのかも知れない。
 鳥居峠から柳平への下りは、明治四十三年測図の地形図に収載されるも、大正末期には峠越えが要らない琴川沿いの道が通じすでに廃道になっていた[6]。この奥、荒川沿いの乙女鉱山は少なくとも江戸時代から採掘が行われていたし、そこへの道筋の一つである柳平も、明治時代には牧場が開かれていた[6,9]。そして現在は、琴川ダムの湖岸緑化と、一世紀以上に渡る開発により人手が加えられ、古道は痕跡すら残っていないようだった。それは柳平集落内も同じである。そのためやむを得ず、鳥居峠広場からは車道伝いに、県道の鳥居峠へ出て柳平へ下った。県道が一番低くなった地点でダムの方から道が合流する付近が、旧森林軌道の合流点である。わずかに登ると、数軒の柳平集落がある。

 

 

⌚ฺ  杣口-(←50分)-琴川第三発電所-(30分)-鳥居峠広場-(10分)-柳平 [2009.9.26(杣口から琴川第三発電所、逆方向で通行)、2021.2.23]

[19]北村峯夫「徳和周辺の山々」(『岳人』四一号、三六~三九頁)、昭和二十六年。

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参道に立つ杣口金桜神社の大鳥居
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浄水場脇に行儀良く並ぶ石仏
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神社入口の石碑を見て金峰に向かう
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琴川第三発電所までは車道化済
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余沢右岸の廃車道に入る
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谷の荒廃と堰堤で古道は消えたかも
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右岸高くの荒廃作業道を利用
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植林中で道が落ち着く
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すっかり細くなった余沢を渡る
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小尾根の左を絡む微かな踏跡に従う
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鳥居峠直下で踏跡は消えた
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鳥居峠広場からの金峰五丈岩
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車道の鳥居峠からは金峰が見えない
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僅か二、三戸の柳平の開拓集落