金峰山東口参道(杣口~刈合平) page 1 【廃径】

 御嶽金桜神社からの有名な南口参道に対し、中世に廃れ仕事道として辛うじて歩き継がれていた東口参道は、森林軌道や車道の整備によりほぼ消滅に近い状態となった。現在歩かれているのは森林軌道跡から刈合平付近までの僅かな区間ではあるが、最近車道が舗装されたことにより、金峰登山の一つのコースとして再び注目を浴びている。

 

 

【道の概要】
 金峰山は、もともと修験道の霊山であった。吉野の金峯山寺を本山として全国に勧請された寺の一つである。中世には、富士山詣でと組み合わせて、関東における霊山修行の重要な拠点となった。その入口となったのが杣口金桜神社である。現存する杣口金桜神社は、移転を繰り返した三期目にあたり、初期の杣口金桜神社は小烏山麓の地に仁寿三年(853)に勧請され、天正年間に火災で消失するまで続いた[1]。一説には天正十年(1582)の織田勢の川尻秀隆により焼失、その後少し下の吉野平に移転、さらに正徳二年(1712)に現在地に再移転したとも言われている[2]。一方、遺跡には焼き討ちの跡がなく、また吉野平へ移転したのは同じ敷地にあった米沢寺の方であり、神社は現在の奥社の位置に残され、正徳期の移転後も神域として残されたとの説もある[5]。車道の杣口林道脇の案内板から山中へ数分登ったところにある初期の社殿は、敷地や基礎の石垣の一部が残る程度だったが、昭和五十一年に小さな社が再建された。初期の杣口金桜神社は、金峰詣での玄関口として大変栄えたが、二期目以降は甲斐の中心が甲府に移って南口が盛んになったため、文書として記録が残る江戸時代以降の資料は南口に関するものだけである。しかし近年の研究によれば、当初の東参道は初期の社殿付近から、小烏山、大烏山、遠見山、御留木、奥千丈岳、国師岳、鉄山と尾根伝いに金峰山まで行く、まさに修行のための行者道だったと考えられている[3]。その後信仰の一般化により、南口参道同様に東口でも、行者でなくとも通行できる歩きやすい道が使われるようになったと思われる。だが具体的な道筋に関する資料や情報は極めて僅かである。
 地理的に面白いのは、笛吹川の大きな支流琴川沿いに山に入った道が、いつの間にか荒川流域に入っていくことである。道は万力から千野々宮、杣口を通って琴川を登り、急流の渓谷を避けて鳥居峠越えで柳平に入る。千貫岩近くで剣ノ峰の尾根に取り付くと、支尾根からいつの間にか琴川と荒川の分水尾根を行くようになり、知らぬ間に琴川側をトラバースする道となる。さらに幾つもの支尾根を越えて荒川本流に下り、支流の御室川沿いに御室小屋手前の苅合平に至る、南口参道に劣らず冗長な道である。現在はダムや車道の建設で、大部分が通行不能となるか消滅してしまった。

 

 

【経路の推定】
 前述のように、東口参道の経路を示唆する資料は極めて少なく、もはや正確に推定することは困難である。それでも、手に入る情報から可能な範囲で道筋の推定を行ってみた。東口参道の詳細を記述した唯一の文献は、昭和初期に麓の諏訪村の古老から聞き取った話をまとめた原全教の著書である[4]。他の登山家がほとんど目を向けなかった東口参道についての記録を残したことは、奥秩父の第一人者としての面目躍如である。平成になってから信仰に関係する遺跡の調査が行われ、金峰山東口参道に関しても若干の記述があるものの、山間部の道筋に関する記述は、あってなきが如しである[1,5]。参道は、窪平と室伏の間の琴川を渡る手前で秩父往還から分岐するとされる[1]。物的証拠として最初に見られるのは、杣口集落内の旧道の両脇にある金峰山への里程を刻んだ文化四年(1808)の一組の石灯籠である。その約五十米先で二車線の県道を横切ると、朱に塗られた杣口金桜神社の大鳥居がある。最後の集落であるの杣口のこの大鳥居を、ここでは東口参道の起点としよう。ここからの道は、かつての森林軌道の跡でもある。車一台がやっとの細い舗装道路を真っ直ぐ進み、再び県道に出合うと、そのまま直進するのが杣口金桜神社への道である。神社に寄らず奥へ進む東口参道は、この付近の車道建設で消滅したと思われ、やむを得ず二車線の県道を行く。一粁ほど先で県道は琴川を渡って、ヘアピンカーブで左岸を登るが、そのまま右岸に続く細い車道が、かつての森林軌道、すなわち参道である。車道は途中琴川の左岸に移り、県道から分れて三粁弱の琴川第三発電所で終点となる。ここで琴川本流を離れて支流の余沢に入る。琴川の険谷を避け、大丸戸尾根を乗越して柳平に入るためである。勾配が急になり、約二百五十米を廃車道で進む。さらに廃道化した山道で余沢の左岸を登る。琴川第三発電所の竣工と前後して設置されたと思われる数基の砂防ダムのため、この廃道が以前の参道と同じ位置であるかは分からなくないが、確かに荒れた歩道が続いている。鳥居峠から来る小窪の直下で余沢を渡ると、峠付近から出る支尾根の南側山腹を微かな道型が登り、現在の車道の鳥居峠より南方、「鳥居峠広場」近くで大丸戸尾根の末端を越える。旧版地形図が示す「鳥居峠」は、山を切り崩して尾根を越える県道の開設により位置が全く分からなくなっているが、おそらく鳥居峠広場付近であったろうと想像される。他の金峰参道のうち幾つかに、鳥居峠と呼ばれる地点があることから、この「鳥居峠」もまた東口参道の通過点であったと推測される。麓から登ってきた信者が、初めて金峰山の五丈岩を目にする地点である。ここから柳平に向かっては、平成二十年に完成した琴川ダムの建設により地形が完全に変わってしまい、参道は跡形もなく消えているので、車道に従い柳平を通過するしか無い。鳥居峠越えの部分は、大正十三年に吉沢一郎が柳平を訪れた時には、軌道開設工事の進行によるものであろうか、もう廃道になっていたという[6]。鳥居峠から下り切った辺りで、琴川第三発電所で分かれた森林軌道跡を再び辿るようになる。
 柳平の開けた地形が再び狭まり渓谷状になると、琴川左岸を行く車道の右側に千貫岩という筍のような高さ数十米の奇岩がある。その直前の谷が浅くなったところで琴川を右岸に渡り、剣ノ峰から来る荒川・琴川の分水嶺に取り付く。尾根に出た所で、そのまま乗越す乙女鉱山旧道を分け、八十八曲を尾根に絡んで一登りすると、楢平の下で、軌道跡の舗装道である川上牧丘林道を横切る。ここからが問題の区間である。東口参道の歩行記録はどれも昭和期以降ものだが、森林軌道が出来たのは、琴川沿いの本線が昭和元年[7]、東口参道の近くを並走して荒川左岸へ伸びる支線が昭和二~七年の建設開始というので[8]、東口参道を歩いた昭和期の記録のほとんどが、距離を大幅に短縮可能な八十八曲以外は軌道か軌道跡の車道を歩いていて、本来の参道を歩いた記録がほとんど見当たらないのである。八十八曲上の軌道横断点先の唯一の東口参道の記録は、原全教が遺したものである[4]。原は昭和の初頭頃に、武田氏の時代に信州側の領地である鉱山集落・川端下への連路として使われたという信州往還を、薄くなった道を追って迷いながら登り、何とか国境の朝日峠に達している。当時の地形図に収載されていた道ではあったが、恐らく当時すでに山仕事に使われる不明瞭な作業道程度になっていたようだ。東口参道は、石祠峠の少し先で信州往還から分かれていたので、その地点まで原の記録を参照することが出来る。その先、参道が荒川手前で森林軌道に出合うまでは、原が著した聞書に頼るしか無い。
 千貫岩の琴川渡河点から御室川出合の荒川渡河点までの間の経路は、昭和四十年代まで地形図に掲載されていたが、図の誤りや不正確さのため宛てにできない。旧版図[9]では剣ノ峰南西尾根が琴川・荒川分水尾根であり、参道はそれを登るようになっているが、現在の地形図で分かるように剣ノ峰南西尾根と琴川・荒川分水尾根とは別の尾根なのである。参道は楢平から明らかに琴川・荒川分水尾根を登っているので、旧版図が剣ノ峰南西尾根を登る部分の経路は、自ずと誤ったものになる。また桜沢から下アコウ沢に掛けて旧版図は二つの明らかな支尾根を水平に捲いているが、現在の図を見ると明瞭な支尾根は存在せず複雑に入り組んだ幾つもの枝尾根を捲くものであることが分かる。そのため参道の通過位置の特定は難しい。通常このような場合、現地を歩いた感触である程度推定できる場合があるが、激しい伐採と植林を経たこの山域では縦横無尽に作業踏跡が付いているため、それも頼りにならなかった。そこでやむを得ず、この区間の道の位置は、地形的条件だけに基づき推測せざるを得なかった。まず古道の常として、道は基本的に尾根道と考えられる。捲道や谷沿いの道は荒れやすいためである。琴川から一度登って荒川へ下るこの区間は、単に尾根通しとすれば奥千丈岳まで登ってから別の尾根を下ってくることになるが、それでは無駄が多すぎる。この付近もそうだが奥秩父は頂稜部が緩やかであることが多く、そこまで尾根を登ったら荒川へ下る尾根に達するまで山腹を捲くものと考えられる。荒川左岸は枝尾根が入り組んでいて傾斜もきついので、低い位置に安定した捲道を通すことは不可能である。地形図を見ると、およそ一九〇〇米以上で明らかに山容が緩やかであることが分かる。そして旧版図が示す参道もほぼ一九〇〇米の等高線に沿って捲いている。図中の破線の位置の精度はともかくとして、千貫平から尾根を登った参道は、御室川の出合に近づくまで一九〇〇米あたりの山腹をトラバースしていたと推測される。
 さらに詳しく見るため、改めて、楢平下の軌道横断点(一六五六米)から、原全教の記録[4]に従い歩みを進めてみる。琴川の奥に入り込んだ車道が、戻るように南行して登り、千貫平へと落ちる支尾根を回り込む地点である。参道はこの尾根に絡んで登り、すぐ先の楢平で琴川・荒川分水尾根に乗る。そのまま地形複雑な分水尾根に絡みつつ、一八二〇米付近まで登る。この先参道は剣ノ峰西尾根上の石祠峠(一八九一米)を通るので、この辺りからトラバースを始める必要がある。原は、途中「湯ノ花峠」を通り、さらに登って石祠峠としている。この区間の原の記述は不思議なほど曖昧で、単に湯ノ花峠を通ると記すのみだ。記録の付図も甚だ簡略で、付近は尾根や沢が記入されず、湯ノ花峠、石祠峠と通過する一本道を示すに留まる。その理由こそが、恐らく前述した当時の地形図の地形誤りであろう。地形図と実際に歩いて目にした地形とが一致せず、深い森を彷徨うようにただ一回通行しただけのため、正しい地形や地形図の誤りを明快に指摘するに及ばなかったためと推測される。しかし、それでも原が正しい地形を把握していたことを伺わせる貴重な資料がある。昭和八年に原が発表した、付近の長城山に関する記録の付図である[10]。この図では、湯ノ花峠で一つの支尾根を、石祠峠でまた一つの支尾根を越え、桜沢へと向かう参道が示されている。いずれの支尾根も上部の剣ノ峰付近が記入されていない辺り、地形図との整合が取れず苦慮した結果と想像される。この付図の情報から、楢平から登ってきた尾根を離れてトラバースを始めた参道は、湯ノ花峠で支尾根を回り込み、石祠峠で剣ノ峰西尾根を越えることが分かる。分水尾根の一八二〇米地点から山腹をほぼ水平に行ったところにちょうど、剣ノ峰南西尾根が少しくびれた地点があるので、そこが湯ノ花峠(一八四二米)と考えられる。さらに登ると石祠峠(一八九一米)とされるので[4]、位置的にここが最適である。鶏冠山西林道が通過する石祠峠に往時の面影はないが、近くの、文化八年(1811)に西保村民が祀った石祠は健在だ。
 楢平から石祠峠の間については、吉沢一郎による昭和十一年の記録もある[11]。詳細なものではないが、「ここ(註:楢平)は地図の上では余り瞭(はっき?)り云えないが恩賜林県有林とある林の字の右上の肩辺りかと思う。」「大体地図にある点線の径であろう。」と曖昧な表現で地形図どおりであることを認めている。図が示す詳細地形に間違いがあるため、歯切れが悪い説明である。
 ここまでの道は東口参道であると同時に旧国師街道(信州往還)でもあったが、石祠峠から二分下ったところで両者が分かれる。原全教はその先、上アコウ沢まで区間を歩いていないため、聞書として記述している。なお、この近くで昭和五年設置の道標を見たことや、地元の人がこの道を山仕事で使っているとの話から、当時はまだ普通に歩ける山道だったようだ。原が聞いたところでは、参道は小沢沿いに桜沢小屋まで下り、登り返して姥ノ萱所(かやと)もしくは半鐘峠と呼ばれるところを通り、下アコウ沢、上アコウ沢と渡って、荒川へ下っていたという[12]。桜沢小屋(一七六五米付近)は、車道の桜沢橋付近でにあった伐採小屋で、昭和初期には軌道が通じ、一時は桜沢に入る支線が分岐していた[13]。古来、参拝者のための山小屋があったという[1,4,5]。姥ノ萱所は、現在車道上に一七九八標高点がある支尾根の上方に当たる峠状の草地であるから、地形的には一八八五米地点と考えられる。わざわざ一〇〇米近くを登り返すのは、現車道が強引に掘削して道を通した急な地形を避けてのことである。姥ノ萱所から水平に来て下アコウ沢を渡った道は、急下して上アコウ沢を渡る。上アコウ沢から先の参道は、原が歩いた当時はまだ使われていた。というのも、ちょうどその時点で、県の森林軌道工事が進んで先端部が上アコウ沢の中流部に至り、そこで東口参道と交差していたからである。登山者は麓からそこまで軌道を利用し、東口参道に入っていたのである。矢島俊和はそれを「金峰裏参道(註:東参道のこと)の登山路はこの軌道を行き石祠峠は通る人が無く荒れています」と伝えている[14]。上アコウ沢を一八五〇米付近で渡り、小さな乗越(一八五七米)を越え、約二十分で荒川の御室川出合へと下る[15]。乗越から荒川までの道筋は、ちょうど旧版地形図の文字の下に潰れていて分からない。図上に多少水平に行く部分が見えていることや、「細い道を横に行く」[15]、「小さいタワを越すと、左はもう荒川の本谷でわづか下って流へでる」[12]、「左側の高みに登って御覧なさい。一寸登るとすぐそこから降る道があります。(中略)ぐんぐん降って行って間もなく脚下の荒川の…」[13]などの記述と、付近の右岸が崖になる荒川の地形からして、山腹を搦みながら下降可能な部分をつないで荒川に達していたことが示唆される。しかし昭和十五年頃、軌道が荒川左岸の御室川出合上にまで伸延され[16]、以後の登山者は荒川渡河点の直前まで軌道を歩くようになった。昭和十年代の付近の様子を示した、小野幸の図が参考になる[17]。
 荒川左岸の軌道全通後、杣口から軌道を登ってきた登山者は、一八五〇米付近を通る軌道から御室川出合へと小尾根が出る地点で初めて東口参道に入るようになった。これはアコウ平まで車で来て、そこから作業道と軌道跡を使ってこの地点に来る現在の登山者と全く同じである。六〇米を急下して荒川へ降り立ったところに、かつては木橋が架かっていた。荒川を渡るとすぐ、かつて大昭和製紙の伐採小屋(通称遠藤小屋)があり、登山者がお世話になることもあったという。また御室川右岸にも同様の小屋があった。伐採事業が終わって不運にも小屋が消失してしまい、一方、伐採用の軌道や木馬道が大弛峠付近まで伸びたことで、杣口からの登山者は、参道を使わず大弛峠からの尾根道を使うようになり、参道は急速に忘れられたようだ。甲斐国志には、御室小屋近くに苅合という地点が有り、毎年そこまで南口、東口とも夏草を刈るなど道の整備が行われていたという[18]。苅合の具体的かつ詳細な地点は不明だが、原全教が刈合平とした地点、すなわち現在のアコウ平道が御室川の白い河原に出る地点の右岸である可能性が高い。そこで東口参道は表参道(南口)と合流し、御室小屋を経て金峰山へと向かっていた。

 

[1]山梨県教育委員会『山梨県歴史の道調査報告書 第12集 御嶽道』、昭和六十二年。
[2]櫛原功一「第4節 山梨県の山岳信仰遺跡 4 甲府盆地北東部の山岳信仰遺跡」(『山梨県山岳信仰遺跡詳細分布調査報告書』山梨県教育委員会、一五一~一五八頁)、平成二十四年。
[3]山本義孝「深山田遺跡と中世修験道」(『深山田遺跡』明野村教育委員会、付録)、平成十四年。
[4]原全教『奥秩父・続編』朋文堂、昭和十年、「琴川とその支流」二六〇~二六九、「石祠峠みち」二七九~二八〇、「杣口参道」三四四~三四九頁。
[5]山梨市教育委員会『山梨市文化財調査報告書 第10集 柚口金桜神社奥社地遺跡 ―山梨市牧丘町柚口地内の山岳寺社跡 学術調査報告書―』山梨市教育委員会、平成十八年、「第2章 遺跡の位置と環境 第2節 歴史的環境 3 牧丘町内の御岳道(袖ロルート)」一五頁。
[6]吉沢一郎「琴川を遡りて奥千丈岳へ」(『山岳』二〇号一巻、一八五~一九二頁)、大正十五年。
[7]安藤愛次・小島俊郎「土壌の性質と林木の成長(3) 35年生のシラベ林」(『日本林学会誌』三九号四巻、一三六~一三八頁、昭和三十二年。
[8]西裕之『特撰森林鉄道情景』、講談社、平成二十六年、「杣口森林軌道」七八~八〇、「山梨県林務部の軌道」八一頁。
[9]陸地測量部『五万分一地形図 鹽山』(明治四十三年測量)、大正二年。
[10]原全教「長城山より琴川へ」(『山小屋』一六号、二一五~二一九頁)、昭和八年。

[11]吉沢一郎「奥千丈迷路行」(『登山とスキー』九巻一〇号、一三~一八頁)、昭和十三年。
[12]原全教『奥秩父』朋文堂、昭和十七年、「東口」四四四~四五三頁。
[13]春日俊吉『奥秩父の山の旅』登山とスキー社、昭和十七年、「金峰・国師岳日帰り行」二五四~二五八頁。

[14]矢島俊和「秩父主脈とその附近」(『山と高原』四九号、二五~二七頁)、昭和十八年。

[15]原全教『秩父山塊』三省堂、昭和十五年、「金峯山(三)」八三~八四頁。

[16]北村峯夫「奥秩父の山々」(『山と高原』二九号、七~一三頁)、昭和十六年。
[17]小野幸『奥秩父の山々』朋文堂、昭和十七年、「金峰山・国師岳近傍図」九三頁。
[18]松平定能(編)・小野泉(校)『甲斐国志 巻之七』温故堂(再版)、「巻之二十 山川部第一」一~五頁、明治十六年(初版は文化十一年(一八一四)、甲府勤番)。