雁掛峠道 page 2 【廃径】
意外にも公開文献が存在しない雁掛峠越えについて、実際に歩いてみたので報告します。数十年以上の放置と災害とにより、ほぼ消滅したというのが実態のようです。
● [逆行区間]金山~雁掛峠
金山とは、地形図にもある字「小倉沢」のことである。第二次大戦前の地図では金山となっていたが、この古い地名は今では「金山志賀坂林道」の名に残るのみである。
雁掛峠の一六六境界標の石柱に立って南の急斜面を見渡すも、道らしき痕跡は全く見られなかった。北面同様、峠越えの部分の道型はほぼ消滅しているようだ。周囲を捜索すると、東に約三十米の一一五境界標から南に向かって山腹を緩く下る踏跡が見られた。立木に薄い赤スプレーが打ってあるのは、国有林の巡視道で見られるパターンである。七、八十米進むと、水の消えた雁掛沢の本谷に出合った。そこから登り始める踏跡を捨て、落葉が深く堆積した谷を下った。道型は無く時々痕跡を感じる程度だったが、さほど傾斜が無いので下りやすかった。基本的に左岸の自然林を下った。右岸にはヒノキ植林が現れた。この付近は雁掛沢が国有林とニッチツ社有林を分けていて、時々境界標が埋まっていた。水が少し出てくると、左岸が露岩まじりで急になってきたので、右岸のヒノキ植林を下った。
一ニ八〇米付近で、幾つかの炭焼窯跡を見た。数十年前に明大隊が、水平道を来たあと沢に出合ったところで見た見た炭焼小屋は、恐らくこの辺りにあったのだろう。傾斜がますます緩まり、谷が広くなってきた。そのほんの少し下、一ニ七境界標の石柱の直上で峠道は沢を離れるが、道そのものが気配程度でほぼ消えているので、歩きながらその地点の特定するのは難しい。実際には、一帯を歩き回り、山腹を行く峠道の微かな痕跡を発見、逆方向に登って沢へ出合う地点を特定した。初め行き過ぎて下ってしまったところ、右岸の植林中に露岩が目立つようになり、すぐ下で右岸に顕著な支窪を合わせ、右岸の露岩が治まると一ニ〇〇米付近の右岸の植林中に小屋跡を見た。大量の空き瓶、ドラム缶、トタンが散乱し、倒れた県造林の看板があった。沢沿いに下からきたらしき踏跡も多数あるが、判然としなかった。峠道はこの小屋の約四〇米上を通っていた。
沢に近い部分の峠道は、巨岩・倒木で荒れていたり、斜面の崩れで道が埋まり、慣れた人でやっと見える程度のものになっていた。ほぼ水平に行くうち、道は次第に沢を離れ、道型がなんとか分かる程度になってきた。雁掛沢一一六〇米圏左岸出合支窪を渡るところで、赤岩坑と思われる坑口の一つを見た。ここからは約五十年前まで使われていた鉱山道となるので、岩や地質的に硬く崩れていない部分は歩きやすかった。しかし土砂が流出した場所も多く、その部分では逆に、三十~五十度に傾いた平坦斜面のトラバースとなるのでかなり気を使った。微かな痕跡から、今なお稀に通行者がいることが伺えた。赤岩坑の赤岩国有林(七六林班)内の鉱業用借地は返還されてだいぶ経っていることから、国有林の巡視か、盗掘者の踏跡辺りであろう。
崩壊が散発する崖のような左岸の高みを行く水平道は、六助道と瓜二つであった。表土流入で均された急斜面を、走って通過した。慎重に歩くより応力が大きくなるため、より大きな静摩擦力が得られるからである。道は大部分が土砂に埋まり、辛うじて判別できる程度のものだった。大捷坑の上部を通過する辺りで、突然、割と新しい電柱が現れた。同形式の電柱は大捷坑跡にもあることから、金山から電力を供給していた廃送電施設のものであろう。そこから始まる、大捷坑のある小窪の上部をトラバースする約百米のガレた区間が極めて悪かった。斜度自体は四十五度程度と極端ではないが、木も石もほとんどない捌けたサラサラの土の斜面は、雪面に似て、一度滑り出すと止まり難い。しかも下へ行くほど急傾斜になっていた。安全な通過が可能かどうかは、通行者の技術、土の状態、気象条件の全てが関係する。訪れた日は適度なステップが効き、条件として悪くはなかったが、もう少し気温が低く凍っていたり、水分が多く滑りやすい状態なら、通過できなかったかも知れない。この危険な長いガレを、何とか水平に抜けることができた。
渡り切ったところが境界見出しの石標(恐らく一五三)とプラ境界標の置かれた小尾根で、ガレ手前の電柱に続く一連の電柱が立っていた。すぐ次の小尾根で索道跡を見た。鉱山地図では、ここから大捷坑へ下る道が分かれているが、跡形もなかった。再び電柱の立つ小尾根を過ぎると、すぐ先が金山沢・雁掛沢中間尾根の乗越であった。廃滑車があり、かつて索道が越えていたことが見て取れた。金山沢側は傾斜が多少緩く、鉱山の遺構も多いので、漸く一息つくことができた。
鉱山地図によれば、道は乗越から小倉沢集落に向かって小窪の右岸を折り返しながら下っている。実際、これかと思われる緩い下り道が、左方の山腹へと続いていた。約百米先の小尾根上一ニ四〇米圏の地点に、作業基地だったらしい広い敷地があった。大量の施設の残骸に加え、一見浴槽のような何かの槽に水が溜まっていた。ここで鉱山道が不明になり、古テープの辺りを下ると、落葉に埋もれた境界見出標を見るも、はっきりした道は見えなかった。標高差三〇米を下ると、今度は水平に細長い作業場跡があった。清水の舞台を思わせる大規模な木製の櫓が、まだ崩れず残っていた。ここから南に向かって明瞭に続く水平な道型は、鉱山地図や森林図にも収載された軌道跡であろう。様々な作業道の不完全な痕跡が見られるなか、断片的に残る金山への鉱山道は、それに紛れて判然としなかった。鉱山道は、軌道跡らしい水平道を一時通り、小窪の中央付近で分かれてまた下っているようであった。微かな痕跡から、鉱山図通りに、三度の大きな折返しで標高一一〇〇米まで下る大まかな道筋を捉えることができた。落葉に埋もれた小窪には、所どころ何かの敷地跡が見られた。
薄い道型は、現れては崩礫や倒木で消え、明滅を繰り返した。不思議なことに、時折顔を覗かす明らかな道型の部分を狙って、新し目の赤テープが幾度か設置されていた。不明瞭な部分の道しるべであれば理解できるが、明らかな部分だけに打ったテープとは、甚だ意味が分からない。別の目的で取り付けられたものであろうか。道が分からない部分は礫だらけで歩きにくい小窪を忠実に辿れば良いので、迷うことはなかった。やがて道は消えそうな細さになって、本谷である赤岩沢(鉱山関係では小倉沢と呼ばれる)へとトラバースしていった。最後は、表土が流失し滑落が危険な斜面を横切り、赤岩沢に下った。赤岩沢は、小倉沢集落を通過し北西から金山沢に合流する大きな支沢だが、累々と大礫が連なり伏流化していた。
道が完全に消えたので、適当にゴーロ状を下ると、すぐ大堰堤の上に出た。テープや杭があるので下り口があるかと調べると、左岸の堰堤脇を急下する危なっかしい踏跡があった。堰堤下で車道に出て百米も行くと、小倉沢集落最奥の住宅(現在は廃屋)があった。そこは赤岩峠登山口でもある。分かりにくい鉱山町を抜ける百数十米の間、どの建物にも進入禁止の張り紙や柵が取り付けられていた。廃墟目当てに訪れては、不法な家屋侵入を行うものが後を絶たない為らしい。金山志賀坂林道(舗装トラック道)に出る地点には、立入禁止の立派なチェーンが掛けられていた。通ってきた鉱山街はもちろん、金山沢から雁掛沢にかけての多くがニッチツ社有林であり、赤岩峠、雁掛峠に向かう者は、私を含め一般登山者の全員が不法侵入である。今の所、お目溢しでお咎め無しのようだが、登山禁止にならぬよう、ニッチツを刺激するような、遭難騒ぎ、勝手なマーキング取り付け、ブログ等での過度の宣伝は、慎みたいものである。
⌚ฺ 小倉沢集落-(←35分:逆行区間)-雁掛沢左岸尾根乗越-(←30分:逆行区間)-雁掛沢に出合う地点-(←15分:逆行区間)-雁掛峠 [2019.3.23]
● 雁掛峠~九三〇米圏の右岸植林地道入口~大滝ゴルジュ上
峠は南側が明るいカラマツ植林、北は痩せた自然林になっている。平らな部分が続きどこが峠か分かりにくいが、小さな石祠が目印である。隣には境界見出標一一六があり、南側は東が国有林、西が日窒社有林、北側は全て吉本社有林である。峠道は両方向とも痕跡すら見当たらなかった。南側は植林作業で、北側は荒廃で、少なくとも峠付近では完全に消滅したようだった。
シカ食害で裸地化した、下生えのない平坦な痩せたブナの森を当てどもなく下った。道の痕跡がないかとわざと蛇行しながら下るが、獣道らしき、どこへ行くとも知れぬ斜めの踏跡以外には、何もないようだった。笹が消えて土砂流出が進んでいるのだろう、どの小窪も抉れていて、窪の下降や、窪を渡るトラバースは簡単ではなかった。下りやすい小尾根に絡んで下る、踏跡といえるか分からぬほどの断続的な痕跡を辿った。森林計画図[19]が示す道がある小窪の右岸尾根である。図の示す小窪を覗くと氷瀑が見えたので、バカ正直に下らなくて正解だった。歩きやすい部分を拾ううち、次第に右の本沢に絡むようになり、やがて一一四〇米圏二股に降り立った。
ここから緩くなった谷沿いを下った。真っ直ぐに高く伸びたシオジが見事だった。右岸の微かな痕跡が峠道の残骸だろうか。水瓶らしきの大きな破片が、遠い昔の生活とそれを支えた峠道を忍ばせた。谷が狭まると、道が消え沢に降ろされた。本谷が滝で入る一〇四五米圏二股は、本来の右岸道が高巻いて下っているようなのだが、斜面崩壊が酷く使えないので、沢の右岸に絡んで下った。その崩壊を過ぎてからは、傷みが酷いとはいえまだ点々と残骸が残る、右岸の峠道に戻った。長沢氏の報告にある車道から来る作業道は、もはや見つけられなかった。不安定な斜面の微妙なトラバースを慎重に続けると、一〇二〇米辺りで河原が開けた。すぐまた前方に滝の気配を感じたので、倒木帯に埋もれた箇所の先で、右岸道に上がった。
初めての青テープを見たが、まだ道は安定していなかった。恐らく沢の上方斜面の植林地から落ちてきたものであろう。正確に追うのが難しい悪路の断片を拾いながら、九七〇米辺りに架かる二条八米滝を右岸から巻いた。左が氷爆、右は美しく一筋で流れていた。右岸の泥壁を下って河床まで下ると、九六五米圏二股だった。巨岩が転がる一帯の先に、ゴルジュらしきが見えたが、よく見ると左岸が空いていて抜けられそうだ。どこから来たのか、錆びた鉄パイプを水中に見た。峠道はこの辺では水際を進んでいたのだろう。
河原が広がった九五〇米付近で左岸の植林に青テープが出てきて、続いて右岸も植林帯になってきた。九三〇米の右岸青テープで、右岸の植林に入る初めての道的なものを見た。頼りない作業道といった感じだったが、これで村まで降りられると安心したのは大間違いであることを、後に知ることになる。
そこでさらに巨岩が多く下りにくいゴーロ状を下ると、大滝ゴルジュの上に来た。両岸とも五十~百米の岩壁で取り付く島がない。この沢の特徴は、植林以外の大部分が、巨岩や大礫、スラブ、裸地なのである。大滝近くの地形は峻険で、下り始めると戻れなくなる危険も無視できない。早々に諦め、帰路を探ることとした。長沢氏が示した、山の神を通る左岸の高巻き道も、痕跡がないどころか、蟻地獄のような斜面は登り難く、ともすれば表土もろとも流され危険である。
⌚ฺ 雁掛峠-(1時間15分)-九三〇米圏の右岸植林地道入口-(20分)-大滝ゴルジュ上 [2019.3.2]
● 九三〇米圏の右岸植林地道入口~六助道による高巻き~大滝ゴルジュ下
九三〇米圏の右岸植林地道入口に戻り、長沢氏報告に見る右岸道を探した。所ノ沢右岸には、上下に長く伸びた植林帯が、自然林帯と交互に沢沿いに並んでいる。しかし道が見えるのは植林内のみで、自然林に入った途端に有耶無耶になっていた。従って岩と小窪が入り組んだ地形と複雑な植林帯の形状を把握していない限り、村に辿り着くことは容易でないのである。右岸道は、約二十五年前にも一部で不明瞭な箇所があったというので、散々捜索した挙げ句に右岸道を諦めたことはやむを得なかった。
続いて、仕方なく車道にエスケープしようと左岸道を探すも、こちらは所々に青テープがあれども、道自体が消滅に近い状態になっていた。表土が極めて不安定で、植林中でも均された裸地状になっていた。グラウンドのように整備された斜面に、ただヒノキを突き刺したような状態であった。痕跡を拾って尾根の芯まで登り、動き回って探ると、尾根の左、すなわち六助ノコル(スミノタオ)に突き上げる所ノ沢の左岸支沢付近の植林に派手に巻かれた青テープが見えた。近づくに連れ、多少の踏跡らしきが見えてきた。行ってみると、ヒノキ植林数十本に青いテープが巻かれた様は、壮観だった。
場所は支沢の九三五米付近であり、仮に大滝上から九三〇米圏の右岸植林地道入口を通らず、左岸支沢に入り直行すれば、十余分ほどの位置である。幹に互い違いにグルグル巻きされたこのポリエチレンテープは、クマ剥ぎ(熊の樹皮剥ぎによる樹木の枯死防止)防止策として林業試験場等が普及を勧めているもので、それを上野村で問題になっているシカの樹皮剥ぎに応用したもののようだった。巻いて一、二年の新しいものだから、作業者の通った道があるはずだ、今度こそ、この踏跡を辿れば村へ辿り着けようと期待した。
しかし、そう簡単ではなかった。小流の支沢を渡り、右岸下流方向を探るとすぐ植林が終わって踏跡はに消え、先程大滝上で流されたような蟻地獄状の裸地になった。前方には露岩の並ぶ小尾根が見え、そこまでたどり着いたとして先の保証はなかった。日没までの時間を考えると確実な判断が求められた。先のシカ剥ぎテープの作業者は、恐らく道を通ってきたのではなく、単に車道から尾根か支沢かを適当に下ってきたのだろう。
植林地帯の縁を、ひたすら上に登った。植林地も同様に表土流出が激しく、まともに上には進めなかった。両手をピッケルのように土に差し込み、もしくは倒木や僅かに残った灌木をホールドに、時には全身を地面に接触させ抵抗力を増しながら這い登った。流されても、どこかの植林に引っかかるだろうから、多少の安心感はあったが、体力を激しく消耗した。
無我夢中で登っている時、久しぶりに見る道的なものが、水平に走っているのに気づいた。使えそうだと直感し、車道まで続いていようかと上流側に少し歩いてみると、遥か上に車道が見えた。続いているにしても相当な登りとなり、時間的に厳しそうだった。だが同時に、記憶にある六助道の光景と似ていることにも気づいた。今度は踏跡を逆方向に歩いてみると、確実に覚えのある場所に出た。六助道が、大滝ゴルジュに落ちる山の神の尾根を回り込む地点である。これで現在地が分かった上、今その尾根を越えたことで、大滝を巻き切ったことも確定した。
そこで不安定で断続的なため今ひとつ頼れない六助道を捨て、山の神の尾根の左側を絡んで大滝ゴルジュの下まで降ることにした。下るというより、何もない例の蟻地獄のような斜面を、ザラザラ流れ落ちて行く感じだった。途中で六助道の道筋と交差したことを、後日GPSを見て知るが、砂のような斜面の下りでは全くそれと気づかなかった。地形を見ながら下れば迷うことはなく、あっという間に大滝ゴルジュ下、右岸の大岸壁下に立った。流れの二十米ほど上にオーバーハング気味のちょっと岩屋的な大テラスが有り、数十米の岩壁下に展開する長さ三十米ほどのこの場所は、神秘的で曰く有りげである。岩壁の先端部の一段高い位置に小さな洞窟があった。かつて何かが祀られていたとすると納得行くが、なんの痕跡も認められなかった。ただ岩壁下のヒノキに、「山が一番」氏が二〇一二年一〇月二七日に残した記念テープが挟まれているだけであった。
ここから野栗沢へと下る道がある筈と、ゴルジュ入口の滝壺まで降りて探したが見つからなかった。そこから見えるのは前衛の五米滝だけで、下から直接大滝を見ることはできなかった。薄暗くなってきたので、滝はお預けにしてとにかく下降路を探した。左岸の約十米上の蟻地獄地帯をトラバースする痕跡には既に気づいていたが、やはりそれをトラバースするしかない、いやその痕跡自体が道と判断せざるを得なかった。そこまで登り返すことすら、両手をピッケルにしての必死の登高だった。そこを抜けると多少踏跡らしくなり、沢まで急下するとすぐ右岸に渡り、岩壁を微妙なスタンスでへつり抜けた。やせ細った丸太が、かつての桟橋の残骸であろう。すぐ道らしくなって植林地に入りピンクテープが現れた。安心したのも束の間、また道が消えた。沢は緩やかで下ること自体は可能だったが、最近の水害のためだろうか、巨岩が堆積しかなりの苦労を強いられた。
青息吐息でふと水面を見ると、見覚えのある鉄骨が落ちていた。もう座禅堂は目の前だった。この付近で合わさるはずの右岸の高巻道には気づかなかった。ゴミが散乱して汚い座禅堂の廃墟で漸く緊張を解き、五分ほど呆然と腰を下ろした。あとはここで合わせた六助道を、車道(所ノ沢林道)まで下るだけだった。
⌚ฺ 九三〇米圏の右岸植林地道入口-(左岸植林地を捜索しながら15分)-六助ノコルに突き上げる左岸支沢の九三五米付近-(35分)-大滝付近に落ちる山の神の尾根-(15分)-大滝ゴルジュ下-(25分)-座禅堂跡-(10分)-所ノ沢林道終点 [2019.3.2]