根利山古道平滝道(砥沢~平滝) page 2 【廃径】
意外にも公開文献が存在しない雁掛峠越えについて、実際に歩いてみたので報告します。数十年以上の放置と災害とにより、ほぼ消滅したというのが実態のようです。
● 砥沢~八丁峠
(2019.9.22の再訪により、町内歩道、植林作業道を峠道と誤認していた箇所が判明、訂正致しました)
平滝道の初端の部分、すなわち砥沢町内とロクリン沢を渡る部分は、町の荒廃と沢による流失とでほぼ消滅していた。根利林業所の事務所を出た道は、駐在所脇を通り、橋をかけてロクリン沢を渡っていた。往時の町内図で確認できるこの橋は、残骸と思しき一本のワイヤーを見るだけだった。幅広の沢を渡り切ると、山神社からくる町内歩道を合わせ、右岸の崖に取り付き、約一〇米上の台地状に登っていたようだ。町からこの台地上までの区間は、そっくり流失し何も残っていなかった。わずかに駐在所(現在の皇海荘)脇で、十数米ほどの道型を認めるが、それを事務所方向に辿るとすぐ崩壊に呑まれ消えていた。
段丘下部で、ロクリン沢右岸を直線的な石堤状で遡ってくる山神社からの町内歩道の微かな残骸を認めたので、この付近が峠への登り出しと思われた。目前の段丘壁は、崩壊してきれいに均された土壁になっていた。地形的に見て、峠道はこの壁を折り返して登っていたに違いなかった。その壁を適当に登って上がると、突然そこに道の痕跡がうっすらと現れた。増田氏が通行した十五年前は「明瞭な道型を辿」ったとのことだが、現時点では辛うじて判別できる程度だった。現在曲がりなりにも道として歩けるのは、この先である。
砥沢~不動沢の区間(等高線5M間隔で作製、焼き場を通るのは峠道でなく墓参道、砥沢町内は複雑のため詳細図を参照)
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図25000及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 令元情使、 第199号)
涸窪状の八丁峠の沢を渡り、その左岸植林地を幾度も折り返して登った。倒木・間伐で猛烈に荒れており、かなり古道歩きに慣れていないと道型を追うのは難しい。斜面を斜めに道型が横切るか折り返す地点の痕跡を見つけ、一歩ずつ確認して進んだ。古道はとても使える状態ではなく、単なる山歩きなら、植林中の荒れの少ない部分を選んで適当に登る方が、全然早いだろう。実際、八丁峠の沢の右岸尾根に、より明確な踏跡が付いているように見えた。砥沢を訪れる釣り人が使うルートかも知れない。 電光型に数度折り返した後、ヒノキ植林を東に向かって暫く斜めに登った。造林用の踏跡もあるので、植林で道型が失われた古道と見分けるのが難しかった。この斜登の途中、慰霊碑に向かう墓参道が分かれることが、二回目の訪問で慰霊碑から来たとき初めて分かった。峠道、墓参道の何れも今や風前の灯で、痕跡すら明確なものではなかった。
道は一度八丁峠の沢から離れ、東隣の微小窪に入り、また折り返してしばらく斜めに登った。付近は倒木の激しい一帯で、しかも崩礫に覆われ、完全に道が消えていた。一面に崩れた礫に覆われているので、道はおろか踏跡や痕跡すら失われていた。一二六〇米付近で峠道が八丁峠の沢の右岸尾根に近づいたとき、初回訪問時は、微かに残る植林作業道の痕跡に入ってしまったが、二度目の訪問で、峠道の痕跡が右岸尾根を回り込んで八丁峠の沢左岸の急な山腹に続いているのに気がついた。崩壊にさらされたこの急斜面の峠道の残骸は、墓参道としては危険である。墓参道はこの区間を避け、右岸尾根か植林地の何れかに付け換えられたようだ。その結果、峠道が衰退して不明瞭となり見逃しやすくなっていた。もっとも右岸尾根にしても植林地にしても、墓参道が衰退した現在、いずれも満足に歩ける道ではない。
山腹の道は崩れて道幅が極端に狭くなっており、一つ目の崩壊を辛うじて通過するも、二つ目の大きい崩壊では高巻きさせられた。巻きの踏跡が極めて弱いことから、峠道がほぼ廃棄されていることを認識した。一二、三米ほど上で見た小さな踏跡が、付け替えられた峠道の踏跡と見られ、この踏跡はそのまま八丁峠の沢の右岸尾根までトラバースしているように見えた。この高巻き踏跡を水平に行くと、すぐ本来の峠道らしきに戻った。しかし一帯のヒノキ植林中は疎林で土壌保持力が弱く、小崩壊が散発する不安定な道が続いた。墓参団が取り付けたと思しきトラロープが、崩壊上部通過箇所に設置されていた。増田氏が、「上部で崩壊地を高巻く箇所は足場が不安定で注意が必要だ。一部固定ロープもあるが…」とした地点であろう。根利山会墓参団一行は、簡単な道普請をしながらここを通過したという[4]。
八丁峠の沢に当たると折返し、またすぐ折り返して再度沢に当たると、今度は一三一〇米二股で右岸に渡り、崩壊地で折り返した。ちょうど折り返す部分が崩れているが、崩壊の手前の縁を登れば問題なかった。この崩壊の内部を通過するようロープが渡してあるのも、沢の崩壊に伴い道を付け替えた[4]というので、根利山会の墓参道であろう。古道を無視してとにかく通るだけならそれを使ったほうが良いかも知れない。
右岸ヒノキ植林の間伐・倒木を越え、ヤブを分けて登ると、荒れてはいるが次第に道型がはっきりし、やがて八丁峠に登り着いた。根利山会によるものらしい「左ヤブ道、砥沢下り口」と書いた表示が取り付けられていた。見た目に新しく、少なくとも平成十三年には取り付けられていたようだ[4]。なお大変紛らわしいことに、尾根上の東方百米弱にある隣の鞍部を、立派な道型の古い植林作業道が越えている。その作業道は所々石垣で補強されたしっかりした幅広の道なので、尾根通しに来るとそちらが峠道に見える。しかしこの道は、少なくとも砥沢側は山中でプッツリ途切れ、どこにも続いていない。墓参道はここで平滝道を離れて尾根通しに根利栗原川林道へ向かっており、この先の区間については、踏跡は薄いが十分利用できる(付図の緑破線)。
● 八丁峠~不動沢
八丁峠から不動沢への下りは、主にカラマツ植林で、時々ヒノキ植林が混じった。斜面は土砂が流れて道型はかなり薄く、作業踏跡との判別が難しくなっていた。峠から一瞬左に下り、折返してからは常に右に山、左に谷を見ながら、一定斜度で下った。適当に下るなら、植林中をどこでも歩けるが、作業踏跡に惑わされず古道をきっちり追うには、判断力を要した。それなりに踏まれているのは、作業道としても使われているからだろう。不動沢の微流の左岸支沢を回り込んで渡る部分は、古道の道型がほぼ消え、むしろ短絡する作業踏跡が明確だった。支沢右岸のヒノキ植林で道の痕跡が回復し、尾根を回る部分では道型が明確だった。次の支沢は、分枝した三流を連続して渡った。道はヤブと倒木で分かり難く、渡る部分の沢筋は荒れ、しかも付近で明確な水平作業道が分岐しているので、かなり分かり難かった。前の支沢と同様、右岸のヒノキ植林で薄い道型が戻った。右岸に沿う道は倒木が酷く、さらに沢筋が広がるとカラマツ植林中で分からなくなった。細い尾根を急旋回するところでやっと道が回復、崖の様な急斜面を下方に不動沢を眺めつつトラバースして下った。
不動沢が近づく頃、大規模な礫崩壊のため道が完全に寸断されていた。それまでの道の付き方からコースを想像して適当に下ると、うまく続きが見つかった。沢まであと一息のところで、中規模の崩壊のため行き詰まった。斜面が激しく抉れていて、強行突破も不可能ではないがリスクがあったため、確実に下から捲いて登り返した。ただ先へ進むのなら、登り返さずそのまま沢を渡渉するのが便利だが、今回は登り返して古道に復帰した。再び道型を下り始めるも、すぐ不動沢の広い沢筋に下り道の気配はすっかり消えてしまった。分流や支沢が複雑に入り組んでおり、そこを通過する弱い踏跡に頼って、錆びた鉄ロープの地点で不動沢を渡渉した。延間沢(リュウノ沢)出合の僅か上の地点であった。右岸にも踏跡が続いていたが、渓畔林のすぐ上から一面のカラマツ植林になっていたので、単なる植林作業道なのかも知れない。
なお平成十七年に通行した増田氏はこの区間を逆行し、途中二度道を失ったとした[1]が、道型自体はまずまず判別可能であった。廃道通行時によくある、見通しが効くので道の流れを判別しやすい下り方向が有利の原則によるものかも知れない。
● 不動沢~根利平川(延間)林道~延間峠
不動沢から延間峠まで(等高線5M間隔で作製)
青点線:通行して推定した旧道、紫線:古い営林署図[9]が示す旧道の位置、赤線:営林署の廃林道、緑線:平滝道、茶点線:営林署歩道
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図25000及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 令元情使、 第199号)
不動沢を右岸に渡渉すると、対岸の低いササに踏跡が続いていた。すぐに延間沢(リュウノ沢)の小さな流れを渡ると、右に炭焼窯跡を見た。僅かな渓畔林を抜けると、一帯は皆伐後に植林されたカラマツだった。ここから延間峠まで、作業用の車道が毛細血管のように到るところに隈なく伸びていて、古道はもちろん明確な作業歩道すら見当たらなかった。そして道型も、車道建設や植林で見事なまでに消え、所々にその断片を見るに過ぎなかった。従って、部分的に見た踏跡も、古道の残骸か作業道なのか全く判別できなかった。旧版地形図ではまず延間沢の左岸を登り途中から右岸に取り付くようになっているが、現地で見れば急壁の左岸でなく右岸を行く方が自然と分かる。昭和七年にここを下ってきた吹原は、「(延間峠から)眼下の不動沢にぐんぐん下りると一旦リュウノ沢を渉り、不動沢を渉って…」と述べており、不動沢近くでリュウノ沢を渡ることを示唆している。これらのことから、旧道のルートは基本的に延間沢右岸を登っていたものと推測した。参考までに辿った道筋を記したのが、以下の報告である。
複雑にうねり、分岐した作業車道が、延間沢右岸尾根から沢にかけての斜面を覆い尽くしていて、歩道が存在する余地がなかった。しかし左岸のやや崖状になった急傾斜に比べ、右岸は歩く余地があり、実際何かしらの断続的かつ不明瞭な踏跡があった。古いマーキングテープが付いた造林作業や釣りのためらしい、断続的な踏跡を拾いつつ登った。右岸も急になってきたので、尾根近くに逃げたところ、作業車道に出てしまった。不規則・不定形に付いた車道は、数十米も進むと行き止まり、そこからまた踏跡が斜面に伸びていた。それを辿るもまた別の作業車道に吸収された。
小屋でも建ちそうな緩やかな斜面を作業車道で通過するあたり、道型らしきが多少見えた気がしたが、確かなものか分からなかった。すぐ上に根利栗原川林道のカーブミラーが見え、緩い斜面の痕跡を適当に登るうち、ちょうど根利平川(延間)林道(以下、支線車道)の分岐に飛び出した。この支線車道のゲートは開いていて、皇海山へは直進を示すドライバー用の看板が設置されていた。
支線車道に入ると、すぐ左に、植林下の笹深い斜面に入る細い踏跡が見えた。何とか歩けそうなので暫く辿ってみた。うねる支線車道を横切り、なお延間沢右岸山腹を緩く登る弱い踏跡は、峠道らしい付き方が感じられた。だがそれも、百米ほど先のヒノキ植林で不明になった。この辺りも縦横無尽に分岐する伐採用作業車道が設けられていたが、その一つに出くわしたと思うと、すぐ先が終点になっていた。再び笹ヤブに潜る踏跡に入ると、カラマツ植林で笹が薄くなった。所々で作業踏跡を何度か見かけたが、峠道らしい道型を探しつつ、ローラー作戦で歩いた。また支線車道から枝分かれする作業車道の幾つかにも入ってみた。きっちり尾根筋を辿った場合は何らかの踏跡が見られたが、道の付き方は山腹を無理なく登る古道とは異なるものだった。隈なく歩いても、どうしても古道の道型は見つからなかった。
支線車道は、延間沢右岸の山腹をしばらく蛇行しながら登った後、延間峠には向かわず、延間沢右岸尾根を回り込んでその西側の別の鞍部で小田倉沢へと越そうとしていた。右岸尾根を回る直前のヘアピンカーブで右に分かれる作業車道が、最も延間峠に接近する車道のようで、峠の直下百米(標高差で三、四〇米)に達していた。この作業車道に絡むように、古道らしき痕跡が見え隠れしていた。仮にこれが古道とすれば、車道建設のため潰されてしまい、連続する痕跡が見つからないのも道理である。峠直下の斜面は滑らかな整地のように表土が流出して道型は全く見えず、明確な踏跡すら認められなかった。峠直下は沢の左岸まで丹念に探したが、獣道や作業道らしい痕跡の他には、何も残っていなかった。
延間峠を、浅い切通状の道型が越えていた。初めて前方が開け、雪を冠った武尊、至仏の峰々が見えてきた。旧版地形図で一五二五米とされた峠の標高は、基盤地図情報では一五三五米であり、砥沢と平滝の間の最高地点である。大日本麦酒、金線サイダーなど、昭和初期の旅人が残した多数の瓶が捨てられていた。登ってきた南側を振り返るも、数米も行かぬうちに道型が消えていて、登り着く道筋の手掛かりすら掴めなかった。
平成十七年に延間峠から逆行した増田氏は、「延間峠から旧道を探しながら下ったが、延間林道に出たところで分からなくなった」としたが、少なくとも現時点では執拗な捜索にもかかわらず、旧道と確信を持てる道型は見つからず、旧道の可能性がある不自然な斜面の痕跡、作業道や獣道と疑われる僅かな踏跡のみが認められた。当時よりさらに荒廃が進んでいたのかも知れない。また「延間沢を渡る手前で踏跡を発見し、不動沢まで辿った」という記述については、造林作業道の可能性を否定できず、確実に旧道とは認識し得なかった。
⌚ฺ 不動沢-(25分)-根利平川(延間)林道起点-(45分)-延間峠 [2019.5.5]
【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)
- 根利栗原川林道の栗原川雨量観測所から西に分岐する支線車道の終点
- 根利栗原川林道の延間林道分岐付近
- 根利平川(延間)林道の支線廃車道(延間峠南下に達するもの)
[8]大東のぶゆき『やまびこ』三一九号、平成二十四年。
[9]前橋営林局沼田営林署『奥利根地域施行計画区 沼田事業図 第4次計画』、昭和五十五年度、追貝(B)(全14片中第7片)